魏志倭人伝の邪馬台国への行路で、対馬国から奴国までは、ほとんどの説で大差がありません。
しかし、奴国の次の「不弥国」については、最終地点の邪馬台国の場所によって、諸説入り乱れています。
今回は、不弥国の候補地や可能性の高い場所について考察します。
不弥国の説の中で最も多くの支持者を集めているのは、福岡県宇美町エリアです。ここは、「フミ」と「ウミ」の名前の類似性があります。
しかしながら、弥生遺跡や当時の農業状況を調べてみると、宇美町に「国」と言えるレベルの集合体があったかどうか、疑問に思えます。
この地図は、北部九州地域です。
不弥国の候補地としては、福岡県宇美町(うみまち)を筆頭に、飯塚市穂波、太宰府市周辺、志賀島や博多湾沿岸の箱崎町(はこざきまち)、玄界灘・響灘に面した新宮町(しんぐうまち)、福津市(ふくつし)、宗像市、周防灘に面した行橋市(ゆくはしし)、築上町(ちくじょうまち)などの説があります。
どの候補地も、邪馬台国という最終目的地を断定した後に、無理やり不弥国の位置を推定しているに過ぎません。
この中で、最も多くの支持者を集めているのは、福岡県宇美町(うみまち)です。これは、「フミ」という発音と「ウミ」という発音が似ているという事と、奴国の中心地を早良平野(さわらへいや)エリアとした場合に百里離れた位置に存在する、という理屈です。しかしこれでは、あまりにも情緒的過ぎます。
そこで、宇美エリアの弥生時代の農業状況や弥生遺跡の分布について調べて行きます。
宇美を中心とするエリアは、福岡平野の中では東側に位置しており、宇美川・多々良川 などによる扇状地を形成しています。弥生時代の水田適地は、谷底低地や三日月湖跡地のような、わずかな土地しかありませんでした。生業は、主に焼畑農業だったようです。
これは、早良平野(さわらへいや)の室見川扇状地や、中央部の那珂川扇状地と同じような性質を持った土壌です。
このエリアの弥生遺跡は、幾つか発見されてはいますが、特筆すべきものはほとんどありません。
多々良川下流域の江辻遺跡(えつじいせき)が、かろうじて机上に上るレベルです。
この遺跡は、弥生時代早期の集落跡で、環濠集落の最も古い形の農村が明らかになったものです。朝鮮半島から伝わった住居形式だけで構成されていますので、貴重な遺跡ではあります。
しかし、室見川流域や、那珂川流域のような豪華な出土品はありません。
また、多々良川が博多湾に流れ込む河口地域は、博多遺跡群と呼ばれる海人族たちの集落跡がありますが、ここは奴国のエリアだったと見るべきでしょう。
文献史学上では、第十五代応神天皇の出生の地とされています。神功皇后が三韓征伐を終えて九州に戻った際に、この宇美の地で出産したとされています。宇美という地名は、出産の「産み」に通じる「宇美」という地名がつけられた、とも言われています。
但し、それ以上の描写は何もありません。
一方、魏志倭人伝での不弥国の記述の特徴は、住居の数が「千餘家」(せんよか)と記されている事です。「戸」という単位ではありません。
「家」という単位は、不弥国と一大国だけに使われており、邪馬台国を始めとする他の国々は、「戸」という単位が使われています。単なる誤記か、あるいは深い意味を持つのか、元になる古代中国語の使用方法でも明確な差異が無い事から、ハッキリした事は分かっていません。
では、不弥国は宇美だったのでしょうか。
私は、その可能性は低いと思います。
まず、宇美エリアは宇美川水系の福岡平野の一部である事。そして、室見川や那珂川と同じように扇状地から成り立っており、同じように焼畑農業でしか農業生産を上げられなかった事。
次に、福岡平野の他の地域に比べて、格段に弥生遺跡が少ない事。これは、同じ北部九州の奴国や伊都国などと比べて、あまりにも貧弱で、国としての体を成していたとは思えません。
最後に、この地が投馬国への出航地とは考えられない事です。宇美川の中流域に位置していますが、船で出発した場合に宇美川、多々良川を下って、博多湾に出る事になります。つまり、奴国からせっかく不弥国に入ったのに、再び博多湾という「奴国」に戻ってしまう事になるのです。
これらから、宇美は奴国の一部であって、不弥国という独立した存在ではなかったと推測します。
以前の動画で考察しましたが、直方平野一帯が不弥国だったと見るのが妥当に思えます。
1.北部九州の中では比較的大規模な水田適地があった
2.遠賀川式土器とセットで水田稲作文化が日本列島各地に広がっている
3.弥生時代の全期間を通して水田稲作文化の遺跡が多く、王墓も多い
4.投馬国への出航地としての役割も担える
⇒弥生時代:直方平野は汽水湖
などなど、様々な理由から、宇美エリアよりも直方エリアを不弥国に比定する方が、自然でしょう。