4000年前から 日本海巡回航路

 古代出雲を調査する中で、最も大きな発見は、隠岐の島の黒曜石です。

今から4000年前の縄文時代には、日本海を渡って対岸のウラジオストクに運ばれていた事実がありました。

 これは、弥生時代が2000年前ですので、その二倍も古い時代から日本海での往来が行われていたという事です。

 そして、古代の日本列島に大陸文化をもたらした渡来人というのは、縄文人の末裔、つまり日本人自身だったのです。

 これは、出雲の青銅器大量出土や多数の神話などが、ちっぽけな話に思えてしまう大発見です。

 今回は、隠岐の島の黒曜石から解き明かされる弥生時代の様々な出来事を総括します。

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隠岐の黒曜石は4000年前に日本海を渡っていた

 中国東北部の沿海州における4000年前の遺跡から、隠岐の島産の黒曜石が出土しています。現在のロシア・ウラジオストク周辺の三十数カ所の遺跡からの出土です。

また、朝鮮半島においても同じように、隠岐の島の黒曜石が発見されています。

 これは、日本がまだ縄文時代だった頃の話です。現代の常識では考えられませんが、縄文人たちは単純な丸木舟で、日本海1000キロの大航海を自由自在に行っていたのです。

 元々太平洋を大航海していた海洋民族が祖先ですので、日本海という内海の航海は「おちゃのこさいさい」だったのでしょう。

 またこれらの地域からは、縄文式土器の発見もありますので、単なる交易で日本海を渡っていたのではなく、縄文人自身が沿海州や朝鮮半島という環日本海地域を支配していた可能性があります。ちなみに、現代の朝鮮半島に住んでいる残念な民族は、その当時はまだシベリアに棲んでいた原始人でした。

 日本海の大航海は、遣渤海使という公的な使節がありました。しかし、これは1200年前の奈良時代の事です。それよりも前の時代の大航海は、ファンタジーでしかありませんでした。ところが、隠岐の島の黒曜石は、4000年も前に海を渡っていたという事実を突きつけて来たのです。

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弥生時代の謎に道筋

 これによって、弥生時代に起こった様々な出来事に、明確な道筋が見えてきました。

 まず、邪馬台国や投馬国での鉄器大量出土です。鉄の入手ルートが明確になります。

 次に、因幡の青谷上寺地遺跡の人骨DNA鑑定結果です。ほとんどの人骨は、父親が縄文人、母親が大陸人でした。

 次に、古文書との整合性です。神功皇后の三韓征伐などの神話は、元になる実話があったことになります。

 そして、日本列島へ大陸文明をもたらした「渡来人」は、縄文人の末裔、すなわち日本人自身だったという事です。

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鉄器の大量出土

 まず、邪馬台国や投馬国での鉄の入手ルートです。弥生時代末期の鉄器の出土数としては、邪馬台国の林・藤島遺跡が日本一、出土量としては、投馬国の奈具岡遺跡が日本一です。

 これらの遺跡から出土した鉄は一体どこから運ばれて来たのでしょうか。

  鉄鉱石や石炭の大産地である高句麗との交易で手に入れていたのではないか、との仮説を以前の動画で考察しました。しかしそこでの疑問は、能登半島から対岸までの日本海大航海が果たして可能だったのか?という事でした。奈良時代には確実に存在していた航路ですが、弥生時代に使われていた証拠が見つからなかったのです。

 この疑問に対しては、隠岐の島の黒曜石であっさり解決です。4000年前の縄文時代には、この日本海航路が活用されていた事が明白になったからです。

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縄文人が大陸で種を撒き散らした!

 次に、因幡の国の青谷上寺地遺跡の人骨DNA鑑定結果です。この遺跡から発見された人骨のミトコンドリアDNAのほとんどは、大陸系でした。これは、母親が大陸人だった事を示しています。また、父親から受け継がれるY染色体のほとんどは、縄文人でした。

 これは、弥生時代にも活動的に動き回っていた縄文人の男達が、日本海沿岸地域で種をばらまき、大陸女性との混血児が生まれていた事の証明になります。

 つまり、環日本海地域が縄文人達によって支配されていたとすれば、この人骨DNA鑑定は至極当然の結果だったと言えます。

 またこれは弥生時代後期の人骨ですので、稲作文化と共に中国大陸南部からやって来た弥生人と、海洋民族の縄文人が、混在していた事の証明になります。そして、組織の上層部に縄文人、下層部に弥生人がいたとする仮説も成り立ちます。

 古文書との整合性です。

出雲風土記の冒頭に記されている国引き神話は、「古志」・「北門農波」(きたどのぬなみ)・「北門佐岐」(きたどのさき)・「志羅紀」からやって来た人々によって、国造りが行われたとされています。

 また古事記の神功皇后・三韓征伐は、邪馬台国から出航して、高句麗・新羅・百済を征伐して、さらに北部九州の熊襲も征伐しています。これらの神話は、日本海巡回航路や、環日本海沿岸地域に縄文人が住んでいたとすれば、なんら不思議なく受け入れられます。

 また、投馬国・丹後風土記に描かれた「浦島太郎伝説」も同じです。投馬国から流れ着いた対岸が竜宮城でした。そこで大陸女性たちと酒池肉林の生活をおくり、多くの混血児をもうけました。そして、その子孫たちが300年後に丹後の国に帰って来たという実話が成り立ちます。

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渡来人は日本人

 日本列島へ大陸文明をもたらした「渡来人」は、日本人自身でした。環日本海沿岸地域に住んでいたのは、航海術に優れた縄文人とその末裔たちでしたので、彼らが取得した大陸文明を自ら日本列島に持ち込んでいたのです。現代で例えるならば、「帰国子女」という事です。

 邪馬台国のツヌガアラヒト、投馬国のアメノヒボコ、などは新羅系の渡来人勢力、三韓征伐の英雄・竹内宿祢、そして卑弥呼一族の末裔の継体天皇が近畿地方を征服した六世紀以降に、頭角を現した蘇我氏や藤原氏、秦氏なども高句麗・新羅系の渡来人と見られます。

 彼らは全て、環日本海沿岸地域に住んでいた縄文人の末裔だったとみるのが自然でしょう。

 これらのように、隠岐の島の黒曜石が4000年前には既に日本海を渡っていた事実は、弥生時代の様々な疑問を解き明かしてくれました。

 出雲の国は、遺跡や神話が多いものの、残念ながら農業の視点からは超大国が出現する要素はありません。しかし、隠岐の島の黒曜石は、弥生時代の闇がスッキリ晴れていくような、重要な事実を示してくれました。

 今回で、出雲の旅は一旦終了します。古代日本の資料の多い地域ですので、また機会があれば取り上げたいと思います。

 次回からは、いよいよ北部九州に入りたいところですが、その前に「よもやま話」でも・・と思っています。