前回は、二世紀頃の青谷上寺地遺跡(因幡)の人骨から、これまでの常識を覆すDNA鑑定結果が出た事を紹介しました。それは、その遺跡に住んでいた住民全員が、渡来人と縄文人の混血が始まったばかりの人々だった事です。二世紀という弥生時代後期でありながら、稲作文化の揚子江系弥生人ではない人々が、因幡の地で弥生集落を作って、水田稲作を行っていたのです。
今回は、この事実を基に仮説を立てて、その論拠を示して行きます。
前回のDNA鑑定結果から導き出される仮説を、具体的に順を追って行きます。
紀元前一世紀頃から、中国東北部においては、高句麗の勢力拡大が始まりました。そして、その対抗勢力だった多くの人々がボートピープルとなって、日本海へと追い出されました。
その当時の古代船は、風力や人力がほとんど役に立たない代物でした。動力は、海流任せでしたので、近海を流れるリマン海流で南に流され、さらに対馬海流によって東に流されて、出雲や高志という現在の山陰地方や北陸地方に流れ着きました。
それらの地には、既に北部九州から広がっていた揚子江系の弥生人達が住んでいました。彼らは、水田稲作で生業を立てていました。山陰地方では、地形上、猫の額ほどの平地しかなく、よそ者が入り込む余地はありませんでした。
当然ながら新参者に分け与える土地はなく、高句麗からのボートピープルは山間部へと追いやられてしまいました。ただし、高句麗系の渡来人は、北方の騎馬民族ですので、水田稲作の米を主食とする人々ではありません。農業をするにしても、麦・稗・粟といった畑作物です。山間部に追いやられたとしても、焼き畑農業などで食料の確保は可能だったと思われます。
その当時の山間部には、弥生人達とは同化しなかった縄文人たちが残っていました。彼らは、弥生時代になっても狩猟や木の実採取で生計を立てて、隠れるように生き延びていた人々です。
そこにやって来た高句麗系の渡来人達は、鉄器文化を持っていた民族ですので、山間部の農地開墾で大いに活躍し、やがて縄文人達と共に生活を行うようになります。当然の結果として、混血が始まります。
また、高句麗系の渡来人は、元々、馬を使って大平原を走り回っていた民族です。山間部の生活では飽き足らず、次第に海岸部の平地へと勢力を伸ばして行く事になります。畑作農業しか知らなかった彼らは、そこで水田稲作農業の安定性、優位性、高効率性を知る事になりました。そこでも、鉄器文化の力を大いに発揮して、治水工事や農地拡大に貢献し、在来の弥生人達と融合、すなわち混血して行く事になります。あるいは、在来の弥生人達との戦いがあり、支配した可能性もあります。
因幡の国・青谷上寺地遺跡から出土した人骨のDNA鑑定結果から、このような古代のストーリーが描けるのではないでしょうか?
この仮説は、もう一つの側面と合致します。それは、四隅突出型墳丘墓の分布です。
高句麗に起源を持つ墳丘墓ですが、弥生中期後半の紀元前一世紀頃から、広島県や岡山県の山間部(備後・美作)にて出現しています。その後、弥生時代後期に掛けて、出雲の国の日本海沿いに広がっています。まさに青谷上寺地遺跡の人骨と時代も同じです。
この四隅突出型墳丘墓の分布の推移こそが、北方アジア系の渡来人たちの来航、山間部の縄文人たちとの混血、平野部の在来弥生人たちとの融合という流れと完全に一致しているのです。
出雲国、投馬国(丹後、但馬)、邪馬台国(越前)という、日本海各地には渡来人伝説だけでなく、飛鳥時代以降には実際に渡来人達が活躍した記録が数多く残っています。
因幡の青谷上寺地遺跡の人骨が、渡来人と縄文人との混血が始まったばかりの人々だったとしても、何ら不思議ではありません。むしろ弥生時代における、大陸からの人々や文物の流れが、DNA鑑定によって確実なものとなったと見てよいのではないでしょうか?
次回は、青谷上寺地遺跡の人骨の内、数人分にある殺傷痕の理由や、日本人の原点である弥生人の全体を俯瞰してみます。