邪馬台国の場所は、畿内説と九州説で二分しています。 他の説は、すべて少数派です。そんな少数派の中で、トップを走るのが出雲説です。 出雲と言っても、現在の出雲平野だけでなく、山陰地方全体だと捉えられています。
山陰地方と言っても広大な地域ですが、平地が非常に少なく、邪馬台国の候補地とされているのは、出雲平野だけです。青銅器や土器の出土が多い事が理由のようです。しかし、山陰地方はこれだけではありません。兵庫県の豊岡盆地は但馬の国で、魏志倭人伝に書かれている二番目に大きい国・投馬国だとする説がありますので、これについても検証します。
出雲の特徴としては、九州や朝鮮半島と強い繋がりがある事です。九州とは土器や青銅器の交流、朝鮮とは鉄器や墳丘墓の繋がりが伺えます。青銅器については日本一の出土量、墳丘墓については個性的な四隅突出型墳丘墓が特徴的です。
鉄器と墳丘墓については、朝鮮半島の東側からの直接の影響が強く、九州を介して広がっていた訳ではありません。古墳時代前に、朝鮮から直接出雲に入ったようです。これは、中国大陸の騎馬民族国家・高句麗が紀元前一世紀頃から、朝鮮半島東側を南下して、勢力拡大したのが大きく影響したと考えられます。高句麗によって、朝鮮半島東側に住んでいた豪族達が、追い出されるようにボートピープルになってしまったのでしょう。日本海の対馬海流やリマン海流、さらには北西の季節風という自然の作用を考えれば、当然の事かも知れません。
これらの理由により、弥生時代後期、出雲地方が九州や近畿とは異なる、個性的な文化圏を作っていた事が分かります。