投馬国から不弥国へ向かう旅の中で、出雲の国の玄関口である「因幡」について調査してきました。今回は、因幡を出発して更に西へ向かい「伯耆」の国に入ります。伯耆は飛鳥時代以降の行政区分で、現代では、鳥取県西部地域となります。
出雲平野に接している地域ですので、弥生時代においては出雲の一部だったと見なせます。弥生遺跡は、妻木晩田遺跡という巨大な集落跡のほか、前回の青谷上寺地遺跡もすぐ近くにあります。
今回は、この伯耆の国を農業の視点などから分析して行きます。
この地図は、投馬国から不弥国までの航路です。邪馬台国・越前から陸路一月で投馬国・但馬に到着し、そこから船団を組んで西の方角へ向かいます。
船団は、地乗り航法で西へ進み、まず因幡の国に入りました。今回は、更に西へ進み、伯耆の国に入ります。
弥生時代には行政区分は無く、因幡から西は全て出雲の国だったと考えられていますが、前回の青谷上寺地遺跡の西あたりからが、飛鳥時代に「伯耆の国」とされました。
伯耆の国の西の端は、現在の鳥取県米子市あたりで、出雲平野と接している地域です。
この地図は、伯耆の国を拡大したものです。
山陰地方全般に言える事ですが、伯耆の国の平野部は非常に狭く、弥生時代はそれよりも更に狭かったと見られます。
倉吉平野は、汽水湖の水引が終わっていない状態で、湖の周りに僅かな農耕地がありました。
米子平野は、河川による沖積平野で、弥生時代の海岸線はかなり上流にあったので、農耕地は僅かでした。また、米子平野に連なる弓ヶ浜半島は、砂が堆積して出来た平地なので、水田稲作には適さないだけでなく、弥生時代には砂の島だった事が分かっています。
このような状態だったので、伯耆の国だけでは国力はありませんでした。しかしながら、すぐ西隣に出雲平野があり、その勢力が移動して来たと見られる大規模集落跡が発見されています。
伯耆の国から発見された邪馬台国時代の大規模集落跡は、妻木晩田遺跡です。現在の米子市淀江町(よどえちょう)と西伯郡(さいはくぐん)大山町にまたがる大山という山の丘陵に存在していました。
160ヘクタールにも及ぶ大集落で、北部九州の吉野ヶ里遺跡の約1.3倍にあたる広さです。
400棟以上の竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)、及び500棟以上の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、30基以上の墳墓(ふんぼ)などが確認されています。また、この集落内からは、高句麗に起源を持つ四隅突出型墳丘墓など有力者の存在をうかがわせるものも見つかっています。
この遺跡は、出雲の国の邪馬台国時代の集落としては、最も大きいものです。また、出雲平野に近いという事もありますので、出雲の主要勢力がこの地域へ移動してきた可能性もあります。
妻木晩田遺跡からの主な出土品としては、小型の鉄製工具が300点以上出土しています。一つの遺跡から出土する点数としては、邪馬台国・越前の林藤島遺跡や、投馬国・丹後の奈具岡遺跡には遠く及びませんが、北部九州の出土数を圧倒しており、出雲の中では最も多い数です。
朝鮮半島で作られた鉄器がほとんどですが、鍛冶場跡も発見されています。つまり、朝鮮半島から鉄を輸入して、自ら加工した可能性もあります。一方、玉造工房も、この遺跡から発見されています。緑色凝灰岩や
碧玉、ガラス玉などを原料とした玉造りが行われていました。高志の国の植民地だった事もあり、玉造の工法は、縄文時代からの伝統を持つ高志の技術だったようです。
伯耆の国・妻木晩田遺跡は、出雲平野へと連なる地域にありますので、出雲の国の「本丸」とも言える場所です。出雲風土記の国引き伝説で「網」として例えられたのは、米子平野から伸びる弓ヶ浜半島で、そのすぐ北にあるのが、高志から引っ張ってきたとされる美保の崎に当たります。
邪馬台国・高志の国によって植民地支配されていた地域ですので、高志に関連する場所が非常に多いのが特徴です。
次回は、伯耆の国から更に西へ向かって、出雲の国へと旅立ちます。