今回からは、投馬国・但馬を出発して九州・不弥国へ至るまでの諸国を訪ねて行きます。この地域は、古代における出雲の地で、現在の山陰地方です。鳥取県、島根県、および山口県の日本海側を指すエリアです。魏志倭人伝には、この地域の記載はありません。不弥国から投馬国まで「水行20日」で一気に飛ばされています。その理由も含めて、この地域の全体像を俯瞰してみます。
この地図は、不弥国から邪馬台国までの航路です。投馬国から邪馬台国までは、行きは海路を10日、帰りは陸路を1月である事を、示しています。
また、不弥国から投馬国までは、海路で20日掛かるとされています。これは、対馬海流を利用した沖乗り航法の為、一気に海を進んだものと考えられます。この20日間に通過する地域が、出雲の国です。
これとは逆方向に進んだ場合、沖乗り航法は不可能ですので、地乗り航法となり、出雲の国も立ち寄っていたはずです。
これまで、邪馬台国から魏志倭人伝とは逆のルートで、投馬国・但馬までを観察して来ました。今回は、投馬国を出航して不弥国へ向かいます。地乗り航法には、小型の準構造船を使った大規模な船団を組んでいたと考えられます。これは、投馬国・但馬の袴狭遺跡から出土した船団線刻画から、明らかとなっています。
投馬国から不弥国の区間は、飛鳥時代の行政区分としては、地乗り航法の順に、因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五国です。弥生時代においては出土品や墳丘墓の分布などから文化的に出雲の影響が強く、一つの国家だったと考えられます。
現代の行政区分では、鳥取県・島根県・山口県の日本海側に相当します。ただし文化的には、瀬戸内海地方への土器・青銅器・墳丘墓などに
影響を及ぼした痕跡がある事から、岡山県・広島県を含めた中国地方全域が「出雲」という巨大国家だった可能性もあります。
では、なぜ出雲という巨大国家が魏志倭人伝の中では無視されているのでしょうか?
いくつかの理由が考えられます。
1.不弥国から邪馬台国までが沖乗り航法だったから
2.出雲は高志の植民地だったから
3.魏の視察員が北部九州にだけ逗留していたから
などです。
まず、不弥国から邪馬台国までが沖乗り航法だった場合です。
北部九州で徴収した租庸調を越前に運ぶには、対馬海流と季節風を利用できます。西から東への一方向の潮流と、農閑期の秋から冬に掛けて西から東へ吹く季節風は、古代の大型準構造船で航海するには打ってつけです。このため、自然条件さえ良ければ、いちいち出雲などの中継地点に寄港する必要はなく、一気に投馬国・但馬まで航海したものと考えられます。
なお、この古代船の特徴については、以前の動画で紹介していますのでご参照下さい。
また、投馬国では必ず立ち寄らなければならない理由がありました。それは、若狭湾です。越前までの150キロの距離は、慎重を要します。自然条件の最高の日を選んで出航する必要があったからです。
次に、出雲は高志の植民地だった場合です。
これは、古事記のヤマタノオロチ伝説や、出雲国風土記の国引き伝説に描かれているのが根拠です。邪馬台国にとって、出雲の国は取るに足らない存在だったのでしょう。これは、いずれ詳細に考察して行きます。
最後に、魏の視察員が北部九州にだけ逗留していた場合です。
魏の国に倭国の様子を伝えた人物が、実際に邪馬台国まで行っていない可能性があります。北部九州に滞在しながら、統治者である邪馬台国からやって来た人々から、航路を聞き出して、魏へ報告したという可能性です。
実際に、不弥国までは詳細な距離が書かれているにも関わらず、不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国までは、日数しか書かれていません。邪馬台国の人々は、出雲という植民地の事など意に介さず、無視して説明したのかも知れません。
出雲神話は、古事記の過半を占める記述があります。記紀が編纂された奈良時代には、非常に重要な地位にあった事は自明です。また、弥生時代中期頃には強力な大国が存在していた事は、考古学的見地からも分かっています。ところが、その大国は、魏志倭人伝の中には登場しません。
江戸時代の邪馬台国研究の先駆者・新井白石は、投馬国を『つま国』という読み方で、出雲を表現しました。そんな無理な曲解をしない限り魏志倭人伝と結びつかないのは、出雲が軽んじられていたからではないでしょうか。