邪馬台国・越前説を証明する上で、ダイナミックな日本海航路の仮説の立証が、非常に困難でした。奈良時代の遣渤海使以前の資料が無く、古代史ファンタジーの域を抜け出せなかったのです。
ところが、隠岐の島の黒曜石にその答えが隠されていました。縄文時代に日本海を渡って大陸に届いていた事実があったのです。これは、邪馬台国時代よりも遥か昔から、日本海巡回航路が確立していた事の明確な証拠です。
今回は、「そもそも縄文人とは?」という視点から、日本海大航海を考察します。
邪馬台国・越前の交易活動の中心は、中国大陸との「鉄」の取引でした。その中で、日本海を反時計回りにダイナミックに航海していた可能性について、以前の動画の中で言及しました。これは、対馬海流とリマン海流を利用した沖乗り航法が、弥生時代には行われていた、という仮説です。この航海方法は、実際に奈良時代の遣渤海使で使われていたルートです。遣渤海使という公的な中国大陸との交流の記録が残っていますが、民間での交流は、その500年前の邪馬台国時代からあったと推測しました。
実際に、弥生時代末期には高句麗から、越前を中心とする日本海沿岸地域に「鉄」の伝来があると同時に、北方系渡来人の人骨や、四隅突出型墳丘墓などの高句麗由来の墳墓が発見されています。これは、高句麗から邪馬台国・越前への航路は確実に存在していたという事です。
ところが、その逆、すなわち越前から高句麗への航路が存在していた、という証拠はなく、古代史ファンタジーの領域を抜け出せませんでした。
そんな中、前回の動画で紹介しましたように、隠岐の島の黒曜石が、縄文時代に日本海を渡っていた事実が見つかったのです。現在のロシア・ウラジオストク周辺の遺跡からの出土です。
隠岐の島から中国大陸へ渡るには、対馬海流で北上し、リマン海流で西へ向かうという、日本海巡回航路の沖乗り航法になります。
縄文時代には、まだ丸木舟しかありませんでした。これは、福井県若狭町の鳥浜貝塚、京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡などから出土しています。
このような稚拙な舟で、本当に1000キロにも及ぶ航海が可能だったのでしょうか?
というよりも、可能だったからこそ、ウラジオストクから隠岐の黒曜石が出土したのです。
これを現代から見ると、邪馬台国時代が1800年前ですので、その二倍以上も前に日本海を横断していたという事です。
縄文時代の航海術を考察するならば、そもそも縄文人とは何者か?という事から入らなければならないでしょう。
弥生人すら未だに解明されていないのに、縄文人を定義するのは至難の業です。DNA鑑定などの科学調査も行われているようですが、それでも様々な説が唱えられているようです。
ここでは諸説の中から、私なりの単純な解釈を示します。
縄文人は、1万6000年前頃から日本列島に現れた人種で、狩猟や木の実採取で生計を立てていました。
元々、フィリピンあたりの東南アジアに住んでいた人種が、黒潮に乗って日本列島にやって来たのが始まりのようです。但し、モンゴル系の遺伝子も強く現れているとの事ですので、北方のシベリアから樺太を通って南下した人種との混血もあったようです。
これは、現代の日本の言語や身体的特徴に名残りがあります。
言語学的には、「発音数の少なさ」。これは東南アジア系の言語と一緒です。また、幼児期に現れる「蒙古斑」。これは言うまでもなくモンゴル系の人種です。
非常に単純な解釈ですが、東南アジア X モンゴル = 縄文人 という事です。
この図式が成り立つならば、フィリピンあたりから来た縄文人が、隠岐の島からウラジオストクまで航海出来たのは、何ら不思議ではないでしょう。
フィリピンには、7000以上の島々があります。この地形的な必要性から、島々を渡り歩く航海術に長け、カヌーの操作や、気象や潮流を読む能力に優れた人々が住んでいたと考えられます。
フィリピンの東には、広大な太平洋に浮かぶミクロネシアの島々があります。ミクロネシアには、フィリピンから渡って来た人々が住んでいます。彼らは更に、ポリネシアやメラネシアという太平洋のど真ん中にまで進出しています。その距離一万キロ以上。そんな長距離をカヌーで渡り歩いていたのです。
縄文人は、こんなとんでもない能力を持った人種の血を引いているのです。太平洋の一万キロと比べると、隠岐の島からウラジオストクまでの距離は、たったの1000キロです。これを丸木舟で航海していたのは、「お茶の子さいさい」だったのかも知れません。
気象を予測する能力、潮流の変化を読む能力、水平線の彼方まで見通せる視力など、現代人とは比較にならないほど、縄文人の能力は優れていたのでしょう。
農耕民族・弥生人では想像も付かない驚異的な大航海を、海洋民族・縄文人は、いとも簡単に成し遂げていたのです。
縄文人が住んでいた日本列島には、やがて稲作文化を持った渡来人がやって来ます。
そして、彼らと混血を繰り返しながら「弥生人」が成立して行きます。そんな中でも、漁業や物資運搬などの「海の活動」は続いていました。日本海1000キロを一気に渡り切るダイナミックな航海は、弥生時代にも受け継がれました。
邪馬台国・越前が、対馬海流とリマン海流を利用した日本海巡回航路を使って、高句麗から「鉄」や大陸文明を直接手に入れていたと考えるのに、何ら矛盾は無いでしょう。