九州説の候補地の中で、最も支持者の多い説は、甘木・朝倉説です。
これは、弥生時代末期の鉄・銅・絹・装飾品などの、多彩な出土品がある事。そして、安本美典さんという、強力な九州説論者がいらっしゃる事も人気の理由です。情緒的ではなく、数値データや客観的な資料を並べて、極めて論理的に説く安本氏に、感化されてしまうのでしょう。
実は、私もその一人でした。しかし、今は違います。
この地図は、筑紫平野の弥生時代末期の様子です。有明海は久留米市の南部まで来ていました。平野部は、鳥栖市、久留米市北部、朝倉市のエリアでした。このエリアは、6000年前の縄文海進の時代に海の底だったので、極めて平坦で水はけの悪い土地です。しかし、大規模な水田稲作には適しています。弥生時代末期にこのエリアが全て水田地帯だったら、間違いなく日本一の穀倉地帯で、日本の中心となっていたことでしょう。ところが、そうはなりませんでした。
その理由を、古墳時代の近畿地方との違いで、比べてみましょう。
近畿地方は、弥生時代末期までは、奈良湖や河内湖といった巨大淡水湖や、水はけの良い扇状地が多く、水田に適した土地は僅かでした。その後、古墳時代に河内湖や奈良湖の水を抜き、広大な水田地帯としました。それによって、米の生産高が爆発的に増え、人口も急増しました。
これが、近畿地方が日本の中心となった最大の理由です。近畿地方は、古墳時代中期の四世紀まで、鉄器の出土がほとんどありません。つまり、鉄器の
後進国でした。そんな後進国が広大な水田を手に入れたのは、鉄器の必要が無かったのも、理由の一つです。
淡水湖の水抜きを行えば、湿地帯となり、水田となる。楽ですよね。何が楽かと言えば、ジャングルを開墾する必要が無いのです。木を切って、根を掘り起こす必要が無いのです。鉄の斧も、鉄の鍬も必要なかったのです。こうやって近畿地方は、鉄器無しで広大な水田地帯を手に入れ、古墳時代という黄金期を迎えました。
話を邪馬台国時代の筑紫平野に戻します。
筑紫平野には、六千年前の縄文海進から、海水面の低下と筑後川の堆積物の蓄積で、四千年の歳月を掛けて、広大な平野が広がりました。これは、徐々に広がったもので、そのほとんどは、ジャングルとなってしまいました。海水が引いた後にすぐに農地にしないと、湿地帯・雑草地・雑木林・ジャングルとなってしまいます。50年もあれば、立派なジャングル地帯となります。広大な平地でありながらジャングル地帯だった筑紫平野。
甘木・朝倉地域には、紀元前に鉄器が流入しています。しかし、戦闘用の剣や鏃ばかりです。斧や鍬という開墾用の鉄器は見つかっていません。たとえ開墾用の鉄器があったとしても、このジャングル地帯を容易に開墾できたとは、考えられません。
ただし、筑紫平野が弥生時代末期に、大きな農業生産があったのは事実です。甘木・朝倉地域は紛れも無く九州の大国でした。
後編では、筑紫平野の水田稲作の実態について、さらに考察します。
甘木朝倉地域からの出土品は、圧巻です。2000年頃までは、鉄器、銅器、絹、装飾品、土器とも、日本で一番出土していました。
今でも、九州説の大本命であることに変わりはありません。