九州説の候補地は、たくさんあります。
まずは、最も可能性の高い筑後川流域から検証して行きます。
今回は、吉野ヶ里遺跡のある下流域について考察します。
上の地図は、現代の九州北部にある筑紫平野です。中央に筑後川が流れ、そこに幾つもの支流が流れ込んでいます。地形は極めて平坦で、大規模な水田稲作に適した土地です。
それぞれの説の所在場所を示します。最もメジャーな説として、甘木朝倉説。次に吉野ヶ里説。マイナーではありますが、筑後御井説、山門説などがあります。
現代における筑後川下流域は、水はけの悪い沖積層で出来ており、水田稲作に最適な土地になっています。では、邪馬台国時代はどうだったのでしょうか?
まず、邪馬台国よりも遥か昔、6000年前の地球温暖化時代、いわゆる縄文海進の頃です。筑紫平野は、すべて海の底でした。その後、海面の低下と共に、徐々に水が引き、筑後川の堆積物の働きもあって、広大で平坦な平野が出現し始めました。
1800年前の邪馬台国時代には、吉野ヶ里から久留米市を結ぶ線あたりが海岸線になっていたようです。吉野ヶ里遺跡は、いまでは海岸線から遠く隔てられた佐賀平野の山裾に近いところに位置していますが、当時は波打ち際でした。この時点で山門地域は、まだ有明海の海の底だったので、邪馬台国の可能性はありません。
吉野ヶ里遺跡については、当時はまだ有明海の岸辺だったので、耕作地はほとんどありませんでした。農業生産の少ない土地に、大きな国は出現しません。吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国だったとは到底考えられません。
なお、筑紫平野の陸化は、弥生時代も現代も1年に10mの割合で進んでいると言われています。吉野ヶ里遺跡は、陸化が進み始めた筑紫平野の水田開拓の窓口だったのではないでしょうか?奈良湖の岸辺に造られた纏向遺跡と同じような役割だったのでしょう。
【山門説について】
「やまと」という呼び名と、古事記・日本書紀の熊襲征伐に、「山門」と記されている事から出てきた説ですが、無理があります。国土地理院が理論的に調査した古代地形図にはかないません。そもそも「やまと」と名乗る場所は、九州だけではありません。また、記紀は邪馬台国の500年後の書物です。
記紀の500年前 → 熊襲征伐(弥生時代末期)
現代の500年前 → 応仁の乱(室町時代末期)
記紀が時代考証をしているはずも無く、物語に無理があっても仕方のないところです。