薩摩は殺馬?火山と日向三代の鹿児島

 九州島の一番南にあるのは、言わずと知れた薩摩の国・鹿児島県です。ここは桜島や霧島などの活発な活火山がある事で有名です。弥生時代のこの地には、この活火山の影響で大きな勢力は存在しなかったと思われます。それは土の質が水田稲作に適さないからです。一方で、日本神話の日向三代の陵墓は、この地に存在します。瓊瓊杵尊などの太古の昔の神々のお墓として、明治時代に宮内庁が治定したものです。

 この地図は、薩摩の国・鹿児島県を拡大したものです。

主な平地としては、鹿児島湾に面した鹿児島平野、北西部の川内平野、大隅半島の肝属平野(きもつきへいや)などがあります。

 いずれも面積規模はあまり大きくはありません。

この地の最も大きな特徴は、桜島や霧島山など古来より活発に活動している火山がある事です。

必然的に、全域に渡って黒ボク土と呼ばれる火山灰の上に生成された土質になっています。

黒ボク土は、畑作農業には適しているものの、ほくほくした水はけの良い土である事と、リン酸成分が欠乏してしまう特徴があるので、水田稲作には適しません。

 現代のこの地の農業は、土壌改良によって水田稲作が行われている地域も存在しますが、ほとんどが畑作農業が続いています。

 邪馬台国時代を考えると、畑作農業での人口扶養力は水田稲作農業に比べてかなり劣りますので、大きな勢力は存在していなかったと推測します。

 考古学の視点からもその様子が垣間見れます。それは、弥生遺跡は存在するものの、土器類や土壙墓といった一般庶民が生活していた集落遺跡だけで、王族の存在を窺わせる出土品はほとんどありません。翡翠や碧玉などの宝石類、鉄器や青銅器などの金属類、などが非常に少ないのです。

 では、主な弥生遺跡を挙げます。

鹿児島県肝属郡(きもつきぐん)の山ノ口遺跡と、鹿児島県指宿市の成川遺跡(なりかわいせき)があります。

 山ノ口遺跡は大隅半島の南部に位置しています。ここは、紀元前1世紀頃の祭祀的な遺跡です。軽石を円形に並べた遺構や、多彩な軽石製品などが検出されています。この地から発見された土器は、山ノ口式土器と呼ばれ、南九州の弥生時代中期を代表する標式土器とされています。

 一方、成川遺跡は、薩摩半島南部に位置しており、大規模な墓地遺構が発見されています。

143基の土壙墓と、細長い板石を立てた立石土壙墓・11基確認されています。

 この地から発見された特徴ある土器類は、成川式土器と名付けられ、弥生時代後期の南九州の標式土器とされています。

 これらの遺跡からは、僅かばかりの水田遺構と、僅かばかりの鉄器の出土はあるものの、強力な豪族の存在を窺わせるものではありません。

 薩摩の国・鹿児島県には、文献史学からの類推による遺跡があります。

明治時代に宮内庁によって治定された根拠の希薄な陵墓があるのです。

神代三山陵(かみよさんりょう)として知られている、【可愛山陵(えのみささぎ)】、【高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)】、【吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)】です。

いずれも日本書紀に記されている神話の人物の陵墓とされ、それぞれ、ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、という日向三代が眠っているとされています。

 明治政府が、日本書紀に記されている内容から、歴史学者の意見を参考にして治定したものですが、根拠は開示されていません。神話の神々ですので、お墓などあるわけないのですが、日向の国の高千穂に近い事から、かなり強引に持ってきたという感は否めません。

 なお、これらの陵墓からの出土品はありません。

 神代三山陵に眠る神々、を紹介しておきます。

天照大御神の孫が、可愛山陵のニニギノミコト。日向の国・高千穂に天孫降臨したことで有名ですね。その息子が高屋山上陵のヒコホホデミノミコト。さらにその息子が吾平山上陵のウガヤフキアエズノミコトです。

 これら三人を日向三代(ひゅうがさんだい)と呼ばれています。

またさらにウガヤフキアエズノミコトの息子が磐余彦尊(いわれびこのみこと)で、初代神武天皇の事です。日向の国を旅立ち近畿地方を征服し、日本国を建国したとされる人物です。

 この辺りの人物に限らず、天皇家は第25代武烈天皇までは、考古学的な根拠の無い神話の上での人物です。日向三代(ひゅうがさんだい)にしても、神話の域を一歩も出ない神々という事です。

 鹿児島県に宮内庁管轄の陵墓があるとしても、ピンときませんね。明治時代のファンタジーもいいですが、そろそろ見直すべきだと思います。

 邪馬台国論争での薩摩の国は、たまに登場する事があります。

それは、魏志倭人伝の邪馬台国までの行路を、方角を正確に辿った場合に、ここを通過するからです。

  この地図は北部九州です。

 邪馬台国への行路では、一大国・壱岐から1000里で末蘆国に上陸します。佐賀県の伊万里市あたりが九州島最初の上陸地点となります。ここから、東南方向へ100里で伊都国。伊都国から東南方向へ100里で奴国。奴国から東方向へ100里で不弥国、と進んで行きます。ここでは距離の記述が短い事から、北部九州域内のある程度現実的な推定地が語られます。

  ところが、不弥国から投馬国へは、「南へ水行20日」となっていますので、途端に怪しくなってしまうのです。そこで素直に船で南へ進んでみると、薩摩の国・鹿児島県が投馬国になるという事になってしまいます。しかも地乗り航法となるので、毎日どこかの港に停泊しなければならないという矛盾も生じてしまいます。

 また、魏志倭人伝の中での投馬国は、五万戸という邪馬台国に次ぐ巨大国家です。弥生遺跡や出土品には、王族の存在を窺わせるものがなければなりません。ところが、薩摩にそれはありません。

薩摩を投馬国と見なすには、無理があるでしょう。

 なお、「投馬国」という文字は書き間違いだ、という説があります。それは、「投」という文字は「殺」という文字の書き間違いだというのです。つまり、そもそも、投馬国ではなく「殺馬国」と書かれていたのだ、という説です。

 しかしこれはちょっと・・・。畿内説の「東」を「南」に書き間違えた、という説と同じくらい、トンデモ説ですね。

 日本書紀に登場する日向三代、紀元前六世紀以前の縄文時代です。多少曲解しても、せいぜい三世紀頃でしょう。その時代は、水田稲作の伝来によって人口爆発が起こった時代です。残念ながら、薩摩の国や日向の国には、人口爆発を起こせるような天然の水田適地はありません。したがって強力な豪族が出現する下地はありません。神様の陵墓治定というおかしな事をせずに、日本書紀の神話は、神話として人々の記憶にとどめておく方がよいと思います。