神武東征は実話である②

 記紀に記されている「神武東征」はあまりにも荒唐無稽で、一般には「神話」としか捕えられていません。そもそも日向の国・宮崎県は、弥生時代おいて強力な国力があったとは考えられないからです。しかし古墳時代に入ると突然強力な存在へと変貌します。それは、「馬の繁殖適地」という他の地域では見られない天然の条件があったからです。今回は、「神武東征」の行路の不思議と、起こったであろう時代の考察を行います。

 日向の国が強大な勢力になったのは、五世紀ころからです。これは、西都原古墳群という九州島最大規模の古墳群の存在からの推測です。不毛の地だった日向の国に、突如として巨大な古墳の築造が始まっているのがこれを物語っています。

 一方、日本最古の馬の遺骸が発見されているのは、宮崎県六野原(むつのばる)地下式横穴墓群8号墓からで、轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られていました。この推定年代もまた、西都原古墳群が出現した時期と同じころの五世紀です。

 これらの事から、日向の国に馬が繁殖し始めたのは四世紀頃で、その後次第に国力を増し、周辺地域を圧倒する勢力になって行ったと推測します。

 神武東征という神話の元ネタは、こうゆう状況下で起こった日向の豪族による侵略の歴史だったのではないでしょうか?

 そして神武東征が実話に基づいた大事件だとすれば、時代は、日向の強力な豪族が勃興したまさにその頃、すなわち五世紀~六世紀頃だと推測します。

 では具体的に行路を検証してみましょう。記紀の中では、高千穂にいた神武天皇が、葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。となっています。しかしこれは記紀編纂時の脚色でしょう。日向から近畿地方へ向かうならば、なにも最初に筑紫の国へ向かう必要はありません。

 太平洋の黒潮を利用して紀伊半島に上陸すれば一番簡単ですし、あるいは豊後水道を渡って四国に上陸し、中央構造線に沿って東へ向かい、近畿地方に上陸すれば良いだけです。

 けれども、なぜかそうはしなかった。

 古今東西、侵略行為を行う手順は、当然ながら周辺諸国の征服からです。特に利益になる場所から侵略して行きます。古代の九州島は、北へ行けば行くほど、大陸からの先進文化が入っていますので、神武天皇はそこに豊かな経済力がある事をよく知っていたはずです。

 そこでまず最初に向かった先は、北隣の豊の国・宇佐です。

豊の国の地形的な特徴は、河川による沖積平野ですので広大な水田適地は得られないものの、日向よりはまだましです。それは火山の影響がないので、土の質が水田稲作に適した低地土だからです。日向の国に比べると遥かに豊かな穀倉地帯が広がっていた事でしょう。

 神武天皇はまずこの地を侵略し、征服しました。

そして宇佐神宮という巨大な神社を建立しました。

 さらに北へ進み、筑紫の国を侵略します。記紀には「岡田宮」という場所に逗留したとなっています。岡田宮は、福岡県北九州市八幡西区にある神社ですが、現在のものは奈良時代以降に創建されたものです。実際には直方平野あたりにあったと推測されています。

直方平野は、遠賀川式土器でも知られるように天然の水田適地ですし、水田稲作文化が日本列島に広がった発祥の地です。

 神武天皇は、この地の侵略にも成功し、支配しました。

なお、日向の国からこの地域への移動は、記紀では船を使ったとされていますが、実際には馬を使っていたのでしょう。これは、中国大陸の高句麗の航海術がとても下手くそだった事からも分かります。餅は餅屋です。騎馬民族は馬に乗るのは上手でも、船に乗るのは下手くそです。

 さて、岡田宮では一年間滞在していますが、その間に、直方平野のすぐ西隣にある宗像地域をも支配下においたと考えられます。宗像は古代海人族で有名ですね。航海術のプロ集団がいた場所です。この地で、騎馬民族の首領である神武天皇は、宗像という海洋民族をも支配下に置いた事になります。そして、遥か東にある近畿地方に豊かな天然の水田適地がある事を知り、東征という名の侵略行為を始めることになったのです。

 このような経緯から、神武天皇は瀬戸内海を進んで行く事になります。ここからの移動手段は、船を使った海上移動と、馬を使った陸上移動という事になります。海軍と陸軍という二つの強力な軍隊を率いた侵略行為でしたので、向かうところ敵なしだったのではないでしょうか?瀬戸内海各地を次々に征服し、略奪しながら近畿地方を目指して行ったのでした。

 なお略奪行為は、食うや食わずの古代に於いては、食料調達がままなりませんので、当然の行為でした。移動という生産性のない活動では、当たり前だったでしょう。

 こうして、日向の国の豪族が近畿地方にやって来たのです。時代としては六世紀の初めころです。六世紀初頭といえば、大和王権に大革命が起こった時代です。

  それは、越前の大王・男大迹王(をほどのおおきみ)が近畿地方を征服し、王朝交替が起こった時代です。この男大迹王(をほどのおおきみ)は第二十六代・継体天皇とされている人物です。

 その当時の大和王権は、無意味な巨大古墳の造成にうつつを抜かして、民衆の不満や周辺諸国の反発が最高潮に達していた時代です。

 そんな中で、北陸地方・越前の国という天然の水田適地をもつ強力な豪族と、九州地方・日向の国という天然の馬の繁殖適地をもつ強力な豪族とが連携して、腐敗しきった当時の大和王権を転覆させた、というのが神武東征の本質であると考えます。

 なお、その後の大和王権の顛末は、以前の動画で考察しています。

それは、越前からやって来た豪族は蘇我氏系列の継体天皇で、日向からやって来た豪族は中臣氏(のちの藤原氏)一族だったと推測します。さらに時代を下って、藤原氏は蘇我氏を滅亡させますが、六世紀の頃はまだ、同じ釜の飯を食う同志だったのです。

 初期のころは、蘇我氏一族が大和王権の中枢で、藤原氏一族は冷や飯を食わされていました。しかし、八世紀の記紀編纂時の権力者は藤原氏一族です。乙巳の変というクーデターによって、藤原氏一族が政権の中枢に居座る事になりました。そしてそれ以前に書き溜められた蘇我氏一族の歴史書は、強引に焼失させてしまいました。

 古事記や日本書紀という新しい歴史書は、日向の国からの東征という自らの一族の輝かしい歴史を、天皇家の歴史・神武東征として改変して作り上げたものです。

 古事記や日本書紀は、現代でこそ日本最古の歴史書となっていますが、当時としては藤原氏に都合よく改変された最新の歴史書という事になります。私たち現代人は、そんな歴史書を信じ込まされているのです。

 神武東征の物語には、日向の勢力が侵略・略奪を繰り返しながら近畿地方へやって来たなどとは全く記されていません。当たり前ですね。天皇の正統性を示す日本書紀に、初代天皇がそんな非道な事をしていたなど記すわけがありません。しかし古代の軍隊の移動は、当たり前のように略奪はあったと思います。現代にも通じますが、「勝てば官軍」です。非人道的な行為も、勝ってしまえばいくらでも正当化されてしまいます。藤原氏が正義の味方、蘇我氏が極悪人? これも同じです。