卑弥呼一族の末裔の謎の大王・継体天皇。
皇位継承に至るまでには、紆余曲折があったと日本書紀には記されています。
しかしそれは、近畿・狗奴国王朝から、越前・邪馬台国王朝への王朝交替を悟らせない為の言い訳です。
当時の近畿・狗奴国は、古墳時代という黄金期を迎えたにも関わらず、周辺諸国から孤立していたのです。
日本書紀では、継体天皇が即位するまでの皇室の内部事情が多いので、ここでは、当時の周辺諸国を含めた情勢を見てみましょう。
継体天皇が皇位継承する以前の、五世紀は、近畿地方の古墳時代の黄金期です。
二つの巨大淡水湖が干上がり、水田稲作に適した広大な農地が広がる超大国に成長していました。農閑期には、巨大古墳が多数造成され、この世の春を謳歌していた時代です。その影響力は、周辺諸国に及んでいた・・・と一般には見られています。果てしてそうでしょうか?
確かに、前方後円墳が全国に広がって行ったのはこの時期ですが、これを近畿地方の勢力拡大とするのは早計です。
文化が広がって行くのは、二つのパターンがあります。
〇 一つは、国家の勢力を拡大して周辺諸国を次々と支配して行くケースです。
この場合、周辺諸国との相互交流があり、自国の文化が拡大して行くだけでなく、周辺諸国からの文化の流入もあります。
〇 もう一つは、国家内での権力闘争に敗れた豪族が、周辺諸国に逃れて、文化が広がって行くケースです。この場合、自国の文化が拡散するだけの一方通行です。
五世紀の近畿地方は、後者です。
なぜならば、前方後円墳という近畿文化が諸国に拡散しましたが、鉄器などの先進文明が流入して来るのは、非常に遅く、文明後進国になってしまった事から、推測出来ます。
また、日本書紀を見る限り、近畿内部での権力争いや、血生臭い殺し合いの神話が多く、勢力拡大の話は少ないようです。
実際の様子も、巨大古墳造成という無意味な工事を続けた結果、民は疲弊し、周辺諸国からもソッポを向かれていたのではないでしょうか?
一方、五世紀の近畿周辺は、出雲、九州、高志の同盟に加え、瀬戸内や伊勢地方まで同盟関係を結んでいます。
そして、五世紀の末に、近畿と唯一同盟関係にあった東海地方が寝返ります。
主力豪族の尾張氏が娘・目子媛を、越前の男大迹王(継体天皇)に嫁がせて、親戚関係を結んでいます。
継体天皇が出現する六世紀には、近畿・狗奴国は完全に孤立していました。
そんな中で、越前・邪馬台国の男大迹王が近畿侵略に乗り出したのは、至極当然の事と思えます。
日本書紀では、もちろん邪馬台国が侵略して来たとは記していません。有力豪族の大伴金村らが招聘したとされています。
男大迹王を天皇に招聘するに到った皇室の内部事情は、次のように記されています。
〇第21代雄略天皇は、天皇の座を得るまでに何人もの兄弟や従弟を殺害したので、直系血族が減ってしまいました。
〇第23代顕宗天皇は、父を殺した仇である雄略天皇の墓を破壊しようとしました。
〇先代の武烈天皇は、女性に対しては極悪非道の限りをつくしました。妊婦の腹を裂いて胎児を取り出したり、女を裸にして馬と交尾させたり、などです。そのため一生を独身で過ごしたので、お世継ぎをもうけることが出来ませんでした。
〇そこで、最初に選ばれたのは、仲哀天皇の五世孫・丹波国の倭彦王(やまとひこおおきみ)ですが、彼は器が小さく、迎えの兵士をみて怖くなって、逃げ出してしまった、との事です。
〇そして、最終的に越前の男大迹王に白羽の矢が立った、とされています。
このように、血筋の遠い人物を正当化するために、これでもか、これでもかと、苦心して物語を作ったようです。
日本書紀の継体記は、六世紀の継体天皇自身が「勝者の論理」で作った話かも知れません。あるいは、八世紀の日本書紀の著者が、王朝交替を悟らせない為の、苦肉の策だったのかも知れません。
いずれにしても、近畿・狗奴国の内部事情だけで、越前・邪馬台国の大王が皇位継承したとは思えません。
当時の状況から、孤立していた近畿・狗奴国が、越前・邪馬台国の侵略を受けて滅びて行った、言い換えれば近畿の王朝交替が起こった、と捉える方が自然です。