北部九州は、日本列島で最初に水田稲作が始まった場所であり、弥生土器の発祥の地です。
縄文時代終末期の刻目突帯文土器から、遠賀川式土器へと連なる土器の文化では、常に最先端を走っていました。
弥生時代を通して見ると、技術的には最先端ながらも、徐々に地域差がなくなって行きました。
そして邪馬台国時代の弥生時代末期には、最先端だったとは言い切れません。
今回は、北部九州の弥生土器の推移と他地域からの搬入について考察します。
弥生土器が生まれる下地として、北部九州を起源として西日本各地に刻目突帯文土器という縄文土器が存在していました。これは、甕の口縁部の外面に出っ張った突帯(とったい)があること、および突帯の文様がは刻み目である事から名付けられた名称です。
この土器は、朝鮮半島の沿海州南西部に見られた無文土器の技法で作られており、縄文土器の部類に属するものです。環日本海系沿岸地域には、縄文人が古くから住んでいましたので、その技術が日本列島に還流してきたのでしょう。
発掘された場所は、最古級の水田遺構で有名な板付遺跡などの福岡平野が多く、日本列島における原始的な水田稲作との強い結びつきを感じます。
この刻目突帯文土器が、弥生土器の製法へと進化した形が遠賀川式土器です。直方平野を流れる遠賀川流域で大量に発見された事から名付けられた名称です。この土器と、水田稲作文化がセットになって、日本列島各地へ弥生文化が広がったとされています。
縄文文化から弥生文化へ、縄文土器から弥生土器へ、進化した場所は、間違いなく北部九州です。
北部九州では遠賀川式土器が出現した後、ほかの地方に先駆けて「タタキ」や「ケズリ」などの技術的進化は見られますが、特筆するほどのものではありません。技術的な事よりも、付属的な要素の変化に、北部九州の弥生土器の特徴が見られます。大きく二つあります。まず、
・甕を調理用の器具としてでなく、遺体を埋葬する為に使用しています。甕棺墓と呼ばれる大型の甕です。
初期のころは、子供を埋葬する小型の甕でしたが、次第に大型化して、大人の遺体も納まる大きさになりました。
・次に、土器の表面を赤く塗装しています。丹という硫化水銀や、ベンガラという酸化鉄によって塗られた土器が多く見つかっています。特に丹は、薬品や防腐剤としての役割があり、弥生時代から奈良時代にかけて、日本列島全域で使用されていました。これを北部九州では、土器の表面に塗りつけて使用していました。
これらは、土器の個性としては注目すべきかも知れませんが、技術的に特に進化したものだとは言えません。
邪馬台国時代になると、品質の面では、ほかの地域の土器が北部九州の土器を凌駕するようになります。
例えば、博多湾の西新式土器と、近畿地方の庄内式土器とを比較すると、庄内式土器の方が上を行っています。
甕という、常に高温にさらされる調理用の土器を例にします。どちらも、「タタキ」や「ケズリ」という技術が使われています。ところが、庄内式の方がタタキ目が細かく頑丈に作られており、ケズリも1ミリ~2ミリという極限まで薄く削られています。
この時代には、九州以外の技術が、元々あった九州の技術を上回っていたようです。
これは水田稲作との因果関係からだと思われます。天然の水田適地が少なかった北部九州では、米が主食ではなく、麦・稗・粟などの畑作物が主食だったからです。米を炊くという、炊飯の必要性が乏しかったのです。一方で、北陸地方や近畿地方には天然の水田適地が多かったので、弥生時代末期から古墳時代に掛けて爆発的な人口増加が起こっています。つまり、米を炊くという、炊飯の必要性が高かったという事です。炊飯に用いる甕の需要と性能に対する要求が高く、必然的に水田適地の弥生土器の性能が向上して、北部九州という弥生土器の起源の技術をも上回ってしまったのでしょう。
この技術の逆転現象は、出土品の傾向からも見られます。弥生時代初期には、遠賀川式土器という北部九州の土器が、西日本を中心とする日本列島各地に広がりました。ところが、邪馬台国時代には、北部九州系の土器が他の地域に搬出される事はほとんど無くなり、逆にほかの地域から北部九州への搬入が増えています。
技術は水と同じです。高いところから低いところへ流れて行きます。弥生時代初期には北部九州から日本列島各地へ、そして弥生時代末期には日本列島各地から北部九州へと、技術が流れていたわけです。
例えば、博多湾の西新町遺跡です。ここは、弥生時代末期最大の国際交易港として栄えていた場所です。出土した土器には、この地から名付けられた西新式土器は当然として、出雲系の土器、北陸系の土器、さらには、庄内式と見られる近畿系の土器も見つかったとされています。技術の還流が起こっていたのです。
話は少し脱線します。
西新町遺跡から、「庄内式と見られる近畿系の土器も見つかった」とされていますが、これは非常に疑問です。出土品の鑑定が作為的なのです。邪馬台国畿内説を補強する為に曲解されているように思えます。
私が調べた限りでは、発掘調査報告書には、単に「土器の形状が庄内式に似ている」というだけで庄内式に認定していました。科学的な検証は行われていませんでした。
蛍光X線分析装置や、誘導結合プラズマ質量分析計という科学的な手法を用いて、弥生土器の胎土の元素分析を行う事が可能です。庄内式土器であれば、大阪の生駒山地西側の土である事がすぐに分かります。ところが、それがなされていないのです。
邪馬台国論争に関わる重要事項ですので、是非とも科学的な検証を行って欲しいものです。
ちなみに、庄内式という近畿地方の標式土器は、北陸系の小松式土器の亜流でしかありません。
仮に庄内式土器の形状と似ている土器が見つかったならば、それは北陸系土器の可能性の方が高いと言えます。なぜならば、北部九州の遺跡からは、新潟県糸魚川産の翡翠管玉や、石川県または福井県産の碧玉製管玉が大量に見つかっているからです。二つの地域には、日本海に沿って強い結びつきがありました。土器についても、北陸系の土器が多く存在していた可能性の方が高いのです。
博多湾沿岸地域から出土する他の地域からの土器は、搬入されたものとは限りません。むしろ、全国の土器職人が北部九州へ移り住み、出身地の土器を製作した可能性の方が高いでしょう。それは、完成品を長距離運ぶよりも、現地で胎土を採取して製作する方が効率的だからです。博多湾という中国大陸との中継貿易地の役割を持った場所には、手に職を持った人材が集まって来たのは必然だったのでしょう。
また胎土の分析は、科学技術での解明が進むと、古代史がさらに明確になる事でしょう。