弥生時代という「米」が主食となった時代において、土器は生活の必需品となりました。人々は、米などの料理の煮炊きといった調理に、水や食物の貯蔵に、一部は食器に、そして時には祭祀の道具として使っていました。また、時代や地域ごとに、独自の形や文様を持った土器が生まれました。現代のファッションにも、流行り、廃りがあるように、土器にも流行があったようです。そして、それらの差を見つけ出すことで、いつの時代にどこで作られた土器かを知ることができるのです。
今回は、そんな弥生土器の変遷を「製造方法」の観点から見つめてみます。
前回の繰り返しになりますが、弥生土器の日本列島全域への広がりを示します。
遠賀川式土器と呼ばれる北部九州で確立された弥生時代初期の標準土器は、対馬海流の流れに従って、日本海沿岸各地に広がって行きます。
水田稲作の伝来は、現在のところ佐賀県唐津市の菜畑遺跡の紀元前9世紀頃とされていますが、大規模農業として定着し、確立したのは遠賀川流域の直方平野で、紀元前3世紀頃です。そこから僅か百年足らずの内に、青森県にまで伝播して行った様子が、土器の分布から確認されています。松石橋遺跡、是川遺跡などからの土器の出土品がそれを物語っています。
次の段階として、遠賀川式土器は内陸部各地への広がりを見せます。山陰地方からは吉備の国を中心とする瀬戸内地方へ、若狭湾からは近畿地方や東海地方へ、それぞれ遠賀川式土器が水田稲作文化と共に入り込みました。
一方、九州の西海岸や東海岸への伝播もあり、南西諸島などでも遠賀川式土器が見つかっています。また、瀬戸内西部地域や、四国の太平洋側へもゆっくりながら遠賀川式土器が伝播しています。
なお、関東地方と東北地方の太平洋側では、遠賀川式土器の影響を受けずに独自に進化しています。これは、水田稲作文化の伝来が最も遅かった事が影響しているようですが、詳細については別の機会とします。
遠賀川式土器という弥生時代の幕開けを告げる土器ですが、当たり前ながら、ある日突然出現した訳ではありません。
縄文時代終末期には、弥生土器の前兆とも言える刻目突帯文土器が存在していました。これは、製造方法こそ縄文土器なのですが、弥生土器と同じように簡素な形をしており、甕や鉢などの実用的な土器でした。
また、日本列島での分布も遠賀川式土器と同じように、日本海沿岸各地と、西日本で発見されています。これは、縄文時代から連綿と続いていた環日本海地域が一つの文化圏だった事の証とも言えます。
それは、刻目突帯文土器の源流が、朝鮮半島や沿海州の無文土器と見られるからです。
無文土器とは、縄文時代末期に沿海州で作られていた土器で、表面に、櫛目文様のような施文がほとんど行われず,無文のものが多いところから、そう呼ばれています。製法は、縄文土器とほぼ同じです。
環日本海沿岸地域は、そもそも縄文時代から倭人が支配していた地域でしたので、大陸や半島で芽生えた倭国文化が、北部九州に伝播して、水田稲作文化と共に日本列島に一気に広まったという事です。
土器の作り方は、非常に単純です。
まず、胎土の採取です。胎土とは、土器を製作する際の原材料として使用される土の事で、粘土に砂が混ざった土です。
次に、胎土を用いて成型・加工します。これは基本的には紐状にした粘土を輪積みしていき、叩いたり、文様を付けたりします。
そして、野焼きで焼き上げます。陶器や磁器のように窯を使って高温で焼き上げる方法ではなく、低い温度での焼成でした。
このように原始的な方法ではありますが、現代人が簡単に作れるものではありません。そこいらの粘土を持ってきて、器の形にして、野焼きしたところで、必ず失敗します。古代人は古代人なりの洗練された技術を持っており、それぞれの工程に理にかなった方法で作っていました。既製品ばかり使っている現代人の方が、はるかに劣っているでしょう。
さて、弥生土器と縄文土器の作り方は、それぞれの工程で違いがあります。最も大きな違いは、焼き方、焼成方法です。縄文土器の場合は、成型した土器に、藁や薪を被せて、そのまま野焼きします。それに対して、弥生土器の場合は、藁を被せたその上に泥をかぶせて野焼きする方法が取られていました。覆い焼きと呼ばれる方法です。これによって、縄文土器の場合には熱が逃げて低い焼成温度になってしまうのに対して、弥生土器の場合は、泥によって熱が逃げないので、窯のような役割を果たし、焼成温度が高温で一定に保たれますので、良好な焼き上がりを実現できたのです。
より丈夫な高品質の土器となっただけでなく、歩留まりも飛躍的に高まったようです。
このような方法で作り上げられた弥生土器ですが、西日本を中心とした日本列島全域に普及しながら、更に進化し個性化して行きます。
特に、調理用の器具として使われる「甕」は、直接火にかけるという耐久性が要求されますので、技術の進化の特徴が顕著に見られます。
製造技術の進化としては、「タタキ」や「ケズリ」です。その呼び方の通り、土器の成型過程において、叩いたり、削ったりする工程です。
タタキは、甕の形に胎土を成型した後、表面を板のようなもので叩いて、土を締め固める工程です。これによって甕の強度が格段に向上します。
ケズリは、タタキとは逆に成型した土器の内側を木器などで削り、土器の肉厚を薄くする工程です。これによって、甕を米の炊飯などの煮炊きに使った場合に、火の通りが良くなります。また、土器の肉厚が薄くなりますので、製造工程の野焼きの際に、割れたり、ヒビが入ったりするのを防ぐ効果もあったと思われます。
弥生土器の製造技術の進化は、「タタキ」や「ケズリ」だけでなく、胎土の質にも見られます。
初期の段階では、粒子が非常に細かい粘土だけを用いて作られていましたが、弥生時代後期には強度を増すために、粒子の大きい砂を加えています。これは粘土を、粒の大きい砂同士を接着する役割として使って強度を高める為です。この胎土を用いて作られた土器の表面には、大粒の砂が露出しているのがみられることもあります。
理屈としては、現代のコンクリートと同じです。粒子の細かいセメントだけでは強度が非常に弱いものです。これに、砂や砂利を加えて、それらの接着剤として活用する事により、強度の高いコンクリートとなります。弥生時代の土器の製作においても、理にかなった、しっかりした技術の進化があったという事です。
北部九州の遠賀川式土器を起点として、日本列島に広がった弥生土器ですので、技術的には九州が最先端でした。
ところが、弥生時代末期には山陰系土器や、北陸系土器の還流が、博多湾沿岸地域で見られます。さらに古墳時代に入ると、庄内式や布留式といった近畿系の土器も、北部九州に還流しています。もちろん土器だけが勝手に動くわけがありませんので、土器を携えて移動した人々の存在があったのです。つまり、土器の動きは、当時の人間の動きを知る手掛かりとなり、人々の交流の一端を教えてくれるのです。