卑弥呼の功績の一つは、対馬海流の重要性に気付いていた事です。
当事の状況は、南に強力な狗奴国(近畿地方)があり、容易に南下できない事情がありました。また、東や東北方面は気温が低いという事情もありました。また、西には出雲勢力や九州勢力がありました。どちらへ進むにも、大きな困難が伴います。
卑弥呼は、西を選択しました。それは、対馬海流と西からの季節風を熟知していたからです。もしかすると、卑弥呼一族も西から流れ着いた流浪の民なのかも知れません。
税の徴収に都合が良い
当時は通貨がありません。税は、租・庸・調です。また、街道が整備されていない時代に、それらを運搬するのは船です。稚拙な航海技術だった時代に、どの方向へ進むのが楽だったのか。当たり前ですが、海流の流れる方向・風を背に受ける方向です。
対馬海流は西から東へ。風は西から東へ吹きます。風については、農業収穫物が得られる秋に西風が吹き始めます。秋から早春にかけて、日本列島に西風や北西の風が吹くのは、現代も古代も同じです。
卑弥呼はこれを熟知していたのです。出雲や九州で、収穫期までに船を作らせ、それに租庸調を載せて邪馬台国の都(越前)まで運ばせていたのです。
なお、この事実は、古事記にも記載されています。「ヤマタノオロチ伝説」です。
”出雲にて、年に一回、高志(越)のヤマタノオロチがやって来て、娘を連れ去ってしまう”
まさに、邪馬台国(越)が出雲を支配していた事を裏付ける記述です。そして、卑弥呼が対馬海流と西風を熟知していたことを物語ります。