こんにちは。八俣遠呂智です。
今回は、邪馬台国に存在する卑弥呼の祭祀用器台を見学に行きました。
場所は、福井県にある福井市立郷土歴史博物館です。JR福井駅から徒歩五分のところにあります。静かな住宅地の中にある立派な建物です。
一般展示はさていない物なので、予め、閲覧申請書を提出し、許可を頂きました。
約束の時間に訪れると、すでに作業場に用意してありました。
また、観察させて頂く前に、学芸員の方が、とても親切に説明して下さいました。
卑弥呼の土器は、1954年(昭和29年)に水道設備工事の際、卑弥呼の墓・丸山古墳から偶然発見されたものです。
その際に、破片が3片発見されて、そこから想像したものだそうです。
八割は石膏で復元されおり、黒みがかった部分だけが現物です。
なお、昭和41年に作られたとの事ですので、発見から12年後に復元された事になります。
説明して頂いた時の様子を途中からですが、そのまま紹介します。
なお、良く通る声が学芸員さんで、こもった声が八俣遠呂智の地声です。
八割方が石膏で固められていて・・
そうですね。この辺とこの辺に破片が、本来の破片が、埋め込みの感じで復元をしてまして、この二つと、あとはこっちですね。ここは、底の方に破片を入れ込んでいます。
この三ヶ所でもって全体の形を復元しているという感じです。
この朱丹、赤い色ってのも後で塗ったものなんですか?
一応、本来の破片のところにかなり赤く、やっぱり塗った跡があって、塗った痕跡があるので、明らかに本来赤く塗られていたものだと思います。顔料の種類は、分析をしていなので分からないのですけれど、類例を見ると水銀朱かベンガラか、どっちかであろうという形にはなると思います。
検査できるような量は、あるんですか?
まあ多分、最新の機器でもってやったら、分かるんだろうなとは思うんですけど、まあやろうという話には今ちょっとなってないんで。
この模様っていうのも復元?
そうですね。この辺見て頂くと分かるんですが、本来、櫛のようなものでキューっと、何か水が流れるような文様を描いたとか見られるので、それを推定で復元した部分にも描いているんですが。まあこれは復元なので、この通りの文様だったかどうかは分からないですけど。ただ破片のところを見ると何かこういう櫛描きの水が流れる文様が描いてあったのは確かです。
このような感じで。うねうねと描いてある。
この辺の穴ってのも、元からこういう状態だったと推定されるのでしょうか?
一応、この破片の一部、それから底の方の破片の一部。こう見ると明らかに透かしの穴があった痕跡があるので、この丸と四角の透かしが幾つか開いていただろうっていう推定のもと・・・。
これは昭和41年に復元されたって書いてあったんですけど。
破片が博物館に持ち込まれた時に、うちの職員がその破片を組んでみて、まあ大体こんな形だろうという形で今、復元されているのがこの状態という事です。
丸山古墳は、出土したのは、これだけですか?
土器の破片としては、今ご紹介したこの三つ分くらいの破片しか出ていないというふうに言われています。それ以外に、鉄剣の破片みたな鉄製品・・。はあ、少し見つかっていたけども、その所在ってのは工事の後、もう分からない状況らしいです。
鉄も出てたんですね。
そうですね、はい。
時代推定ってのは、どういう事でなったか分かりますか?
このいわゆる器台ってのは、おそらくこの上に壺を載せるような、いわゆる器の台の形をしているんですが、この手の種類の焼き物っていうのは、大体、形でもって時代が推定されているんですね。この手の鼓形のような形になっていて、一番、この広縁っていいます、この縁の部分がある程度垂直に立っているような形ってのが、大体弥生時代の後期の前半くらいの、作られた時代としては弥生時代の後期の前半ころのものだっていう風に、一応は推定はされています。ただこういう櫛描きでこういう文様を描いているってのは、類例としてはかなり珍しいので、その辺はちょっと特殊ではありますね。
後期の弥生土器ってのはあまり文様は付けない事が多いので。
前期の、古い方が付いていたのですか?
中期くらいの、特に近畿地方の土器にはこういう櫛描きの文様がたくさんついていたようです。
ありがとうございます。では、観させて頂きます。
器台の大きさです。
上部の広縁部の直径は、310ミリ。下部の直径は、210ミリ。
高さは、240ミリです。
右に置いてあるスマートフォンと比較すると、かなり大きい事が分かると思います。
では、たくさん撮影した画像の一部をご紹介します。
博物館では、「丸山古墳出土の器台について」という報告書のコピーを頂きました。
これは、この土器が復元された昭和41年に書かれたもので、詳細が記されています。
この内容は、次回の動画で詳しくご紹介します。