前回は、「卑弥呼の墓」の入口まで辿り着きました。
ところが、・・・頂上の配水場に登る階段は、・・・閉鎖。
途方に暮れてしまいました。
しかし、簡単には諦めません。配水場のほかに、神社もあったはず。その登り口を探して、周辺を徘徊しました。
卑弥呼の墓に登るための、頂上への階段には入れませんでした。配水場の施設管理者によって鉄の門が二つも作られ、入口がしっかり施錠されていたのです。
そこで、配水場の裏手にある神社の登り階段を探すことにしました。次の動画は、卑弥呼の墓の周辺を撮影したものです。
まず、北東側に小さな公園を見つけたので、そこから見える卑弥呼の墓です。
直径120メートルとはいえ、近くで見ると、かなり巨大です。周りは、民家に囲まれていて、ごく普通の住宅地です。
ここが「卑弥呼の墓」だと分かれば、住民の皆さんは腰を抜かしてしまうでしょう。
これは、卑弥呼の墓を南側から眺めた映像です。
右手には、遠くに白山連峰が見えます。
近くに見える山は、原目山古墳群、その向こうの山々は、南春日山墳墓と、松岡古墳群です。
これらも、いずれ探険するつもりです。
神社への登り口は、民家の間の細い路地でした。
山のふもとには、「神明神社」の石碑。
早速登ってみましょう。
鬱蒼とした木々の中、30メートルほど進むと、諏訪社の石碑。
右に曲がって30メートルほど進んだ所が神社のようです。
映像では表現できませんが、現場は、木々に囲まれて日差しが入らず、じめじめした陰鬱な場所でした。小さな虫がいっぱい。じっとしていると大量に纏わりついてきます。
鳥居と、社殿です。
社殿から見た周囲の様子です。
木々に囲まれて、下界の様子が全く見えませんでした。がっかりです。
頂上の配水場に繋がる道はないか、と探してみると・・・ありました。
実は、この時、虫の大群にうんざりしており、卑弥呼の墓の頂上まで登る気力が失せていました。・・・残念。
このように、「卑弥呼の墓」の探険は、不完全燃焼に終わってしまいました。
今度来る時は、寒い季節を選び、防虫スプレーをしっかり塗って、再挑戦したいと思います。
この「卑弥呼の墓」・福井市丸山は、1954年の福井市上水道の配水場工事で、飛鳥時代の遺物が少量発見されたそうです。卑弥呼の死から400年後の、名も無き豪族のようです。
「卑弥呼の墓」であることも忘れ去られた後に、造られた墓かも知れません。
また近畿地方では、その時期に蘇我氏(越前系)と藤原氏(九州系)の争いが終結しています。そして、越前は藤原氏のものになりました。
記紀から、邪馬台国を抹消した藤原氏が、卑弥呼の墓も抹消したのかも?・・・・
興味は尽きません。