邪馬台国九州説には説得力がありますね。何より朝鮮半島に最も近い場所ですので、弥生遺跡が多いですし、魏志倭人伝の曲解も簡単です。
私も以前は九州説支持者でした。畿内説に対してはムキになって反論していた時期もありました。
九州説と言っても、百花繚乱、色んな場所が名乗りを挙げています。
その中で、甘木・朝倉説に最も魅力を感じていました。提唱者の科学的・統計学的な手法は、共感できるものがありました。弥生時代の農業生産にしても、筑紫平野ならば巨大国家が出現できるだけのキャパシティーが有ると信じていました。
ある資料を見るまでは・・・。
結論から入ります。私が九州説をやめた理由は、江戸時代初期に記された「旧国郡別石高帳(きゅうこくぐんべつこくだかちょう」」を見たからです。これは、豊臣秀吉が日本全国の石高を調査した所謂「太閤検地」が先鞭をつけ、その後、江戸時代初期に、かなり正確に石高が再調査された「慶長郷帳」の記録です。
これを見るまでは、「弥生時代の超大国は農業大国だった」という基本的な前提に立って、九州説を支持していました。筑紫平野という広大な平野を有する地域ですので、巨大国家が出現できるだけのキャパシティーを持っていると信じていました。
また、北部九州は鉄の伝来が紀元前五世紀頃と日本一早く、それから800年後の弥生時代末期には、鉄器の普及が進んで、大いに開拓・開墾がなされ、農業大国になっていた、と思っていました。
ましてや、更に1400年後の江戸時代には、現代と同じくらいの水田稲作地帯が広がっていたとばかり思い込んでいました。
その考えを根底から覆したのが、江戸時代初期の「旧国郡別石高帳」でした。
広大な筑紫平野を有する筑前の国が、想像以上に小さな国だったのです。
「旧国郡別石高帳」の具体的な数値を示す前に、私が九州説を支持していた理由を示します。
九州説は、いろんな人がいろんな場所を邪馬台国の中心地だと主張しています。朝鮮半島に近いだけあって、豊富な弥生遺跡がありますし、魏志倭人伝や記紀などの古文書を曲解しやすいのが原因でしょう。
北部九州の主な候補地だけでも、博多・糸島・大宰府・甘木朝倉・吉野ヶ里・久留米・八女・山門・宇佐と、いくつも挙げられます。
その中で、農業の視点からだけで判断してみます。玄界灘に面した博多・糸島・大宰府及び、瀬戸内海に面した宇佐は、水はけの良い扇状地ですので、水田稲作には不適格です。吉野ヶ里・久留米・八女・山門は、現在のような水田が広がっている平野ではなく、弥生時代にはほとんどが有明海の沿岸部でしたので、農業生産は僅かでした。
この中で超大国になれる可能性があるのは、甘木・朝倉地域です。筑後川によって堆積された広大な平野ですので、大きな農業生産があった、と思っていました。
また、甘木朝倉説の提唱者は、「理系」の発想で、農業生産の数値化もされていたので、非常に共感していました。
ちなみに、私も理系です。・・・理系は理系のズルさを知り尽くしています。
今となっては、甘木・朝倉説の農業生産の数値化は、結論ありきのデータ操作以外の何ものでもない、と思っています。
農業生産の数値化の欠陥は、いずれ具体的に説明します。
弥生時代の超大国を探る上では、水田稲作の農業大国である事が必要条件ですので、その優位性と問題点を整理しておきます。
水田稲作が、穀物栽培の頂点に立っている事は、ご存知かと思いますので、ここでは要点のみを示します。まず、
1.畑作物のような連作障害がほとんどありません。毎年、同じ場所で同じ収穫高が期待できます。
2.栄養価については、単純比較はできませんが、小麦と比べて1.5倍高いと言われています。
3.根元が水に覆われているので、畑作物に比べて病害虫の被害が非常に少ないです。
問題点としては、
1.水を張るので、平坦に整地しなければなりません。
2.水を張っても、水はけが良ければ消えてなくなってしまいます。つまり、水はけの悪い場所でなければなりません。
3.苗の植え付けから生育期間は常に水が必要ですので、しっかりした治水工事が必要です。
このように、水田稲作を行うには、理にかなった環境整備が不可欠です。弥生時代という古代に於いて、人工的にこれだけの環境を整える事はできません。実際、北部九州の水田稲作は、三日月湖跡のような、狭い小さな場所に限られていて、小国林立の状態だったようです。もちろん、焼き畑によって陸稲、麦、稗、粟といった畑作物の栽培も行われていましたが、一極集中型の巨大国家が出現できる環境ではありませんでした。
魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」というのは、北部九州で小国同士の争いが絶えなかった様子を描いているのでしょう。
甘木・朝倉のある筑紫平野は、筑後川水系の堆積物による平野です。山地に近い事もあり、元々水田稲作には適さない扇状地や洪積層から出来ています。また、河川の堆積物で形成された平野は、人間が手を加えないと、湿地帯から草原地帯、さらに密林地帯へと変貌してしまいます。
弥生時代という狩猟から農業へと食料調達が変化し始めた時代では、この甘木朝倉も、まだ密林地帯でした。しかし、その欠点を十分に補う道具がありました。鉄器です。
たとえ密林地帯であろうとも、鉄器を用いて開墾・治水工事を行えば、大きな農業収穫が得られたのではないか、鉄器伝来の早い九州ならばそれが可能だったのではないか、と想像していました。
ところが、江戸時代の国別の石高を見て、完全に間違いだった事に気付かされました。
木を伐り、根を掘り起こし、岩を取り除き、土地を平坦に整地し、耕し、川から水を引く。・・・そんなに生易しいものではありません。
現代のように、重機を使って簡単に開墾出来るものではなかったのです。
なお、静岡大学農学部の研究によると、水田稲作が日本全国に完全に浸透したのは、安土桃山時代になってからという結果が発表されてます。それだけ水田稲作の環境整備は難しかったという事です。
本題に戻ります。私が九州説をやめた理由は、江戸時代初期に記された「旧国郡別石高帳(きゅうこくぐんべつこくだかちょう」」を見たからです。
筑紫平野の下流域の肥前や筑後については、弥生時代にはまだ有明海の底でしたので、江戸時代の石高は参考になりません。
弥生時代に超大国があったと信じていた甘木・朝倉地域を含む筑前の国は、弥生時代も広大な平野でした。そして、鉄器によって開墾されていた筈だと信じ込んでいました。
ところが、1400年後の江戸時代でさえ、わずか52万石しかなかったのです。
弥生時代の超大国の基本条件は、水田稲作の大産地である事。この基本条件が崩れ去った九州説に対しては、全て否定的に眺めるようになりました。
古代の超大国は、古墳時代の近畿地方を見れば分かります。弥生時代までは、河内湖・奈良湖という巨大淡水湖が存在していましたが、その水が引いて、平坦で水はけの悪い沖積平野となりました。それは天然の水田稲作に最適な土地であり、古墳時代・飛鳥時代へとつながったのです。
これと同じように弥生時代の超大国を考えれば、邪馬台国もまた「巨大淡水湖が干上がった天然の水田稲作地帯」という仮説が成り立ちます。
私は、この視点に立って、邪馬台国の場所を特定しました。
その答えは、九州でも近畿でもない意外な場所でした。