瀬戸内海航路 いつ拓かれた?

 古事記・日本書紀の神武東征などの神話には、瀬戸内海航路が使われています。前回までの動画で、日本で最も難しい海域である瀬戸内海をその時代に使ったなど、有り得ない事を示しました。では、いつ頃からこの海路が使われ始めたのでしょうか?記紀が書かれた八世紀には、遣隋使や遣唐使という中国との交流があるので、造船技術や航海技術がかなり進化していた事が分かります。

 今回は、考古学的な見地と文献史学的な見地から、瀬戸内海航路が拓かれた時代を推測します。

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弥生文明の流れ

 瀬戸内海航路が拓かれた時期を特定するには、まず出土品の分布から見て行く必要があります。

弥生時代における瀬戸内海の島々から出土する顕著な遺物はほとんどありません。また、楯築遺跡のある吉備の国には弥生遺跡が豊富ですが、土器の種類が出雲地方の影響を強く受けていますので、瀬戸内海を通って運ばれた文化というよりも、日本海側から中国山地を超えてもたらされた文化と言えます。これは、近畿地方にも言える事です。近畿は先進的な地域だという先入観がありますが、独自に発展した訳ではなく、日本海側の若狭湾を通して文化の流入があった場所です。

 このように瀬戸内海地域は、古代に於いて明らかに遅れた地域でした。

そんな取り残された地域に光が指すのは、考古学的な出土品の状況から、五世紀から六世紀頃の事です。その頃になってようやく、造船技術や航海術の向上による瀬戸内海航路が開拓されたのでしょう。

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文献史学の瀬戸内航路

 文献史学上で瀬戸内海航路を使っているのは、初代天皇の神武天皇から始まり、景行天皇、日本武尊、神功皇后の時代に見られます。これらは四世紀までの神話の時代なので、まだ瀬戸内海航路は拓けていません。

 五世紀に入ると、雄略天皇の時代に高句麗・新羅・百済との戦いの記録があります。これは、神功皇后の三韓征伐とよく似ていますね。雄略天皇については、熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳と埼玉県行田市の稲荷山古墳から、その諱(いみな)の銘の可能性がある鉄剣が発見されていますし、吉備の国で起こった反乱・吉備氏の乱を鎮圧しています。

 これをソックリそのまま信用すれば、五世紀頃に瀬戸内海航路は拓けていたとも考えられますが、かなり微妙です。それは、高句麗・新羅との戦いや、熊本県・埼玉県の出土品は、古来より使われていた日本海航路の可能性が高いからです。吉備の国の反乱にしても、近場ですので陸路を使った可能性があります。ちょうどこの時代は、神話と実話の中間期ですので、古文書をそのまま信用するのは、難しいところです。

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存在の確実な天皇

 雄略天皇の次は、六世紀の越前の大王・継体天皇の時代です。この時代にも朝鮮半島への出兵や、九州での反乱鎮圧の記述があります。古代最大の戦争といわれる「磐井の乱」です。この時代からは、実話だと言われています。その根拠は、継体天皇の記述が記紀だけでなく、その前の時代に書かれた「上宮記」という藤原氏と敵対する蘇我氏の歴史書にも登場するとから、存在が確実視されています。また、反乱を起こした筑紫磐井勢力も、記紀だけでなく筑後の国風土記に登場しますし、磐井の墓と断定できる岩戸山古墳も福岡県八女市に現存していますので、確実でしょう。

 ただし、近畿地方から九州地方への航路の記載がありませんので、必ずしも瀬戸内海航路がこの時代に拓かれたとは断言できません。特に、継体天皇は越前の大王です。古来から主流だった日本海航路を利用して九州を行き来していた可能性もあります。

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大王の棺 実証実験

 瀬戸内海航路の開拓を知る上で、重要な実証実験が行われています。2005年の熊本県宇土市主催による「大王のひつぎ実験航海事業」です。これは、継体天皇の墓である今城塚古墳から発見された熊本県宇土市の阿蘇ピンク石を、実際に、古代船を建造して瀬戸内海を通って大阪まで運ぶ実験でした。この実証実験は成功してします。

 また、継体天皇の時代には瀬戸内海各地に屯倉が置かれています。屯倉というのはヤマト王権初期の時代の地方行政府のことです。この行政府が瀬戸内海の各地に置かれるようになったという事は、瀬戸内海航路が拓かれて、その地域が大和王権の支配下に入った事を意味するのではないでしょうか。

 これらの事から、この時期に航路が拓かれた可能性は、かなり高いと思われます。

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後進地域の瀬戸内にも文化・文明が伝来

 その後の七世紀には、遣隋使が瀬戸内海を通って中国へ向かった事になっていますし、八世紀には遣唐使が瀬戸内海を使っています。

 記紀が書かれた八世紀には確実に拓かれていた瀬戸内海航路ですが、その始まりは、この様にせいぜい200年前の六世紀頃だと推定します。

 弥生時代から古墳時代前期までは、中国大陸の進んだ文物は、日本海航路でもたらされ、先進地域は日本海側でした。文明から取り残された後進地域は瀬戸内海や近畿地方でしたが、六世紀になってようやく先進文明がもたらされ、その後の近畿地方中心の日本が形作られたのでしょう。

 神話の時代は、瀬戸内海地域の物流は海路ではなく陸路でした。現在の愛媛県松山市から徳島県徳島市へ抜ける中央構造線に沿った陸路は直線的です。四国山地の谷間のような場所で、峠も少なく、瀬戸内海を進むよりも遥かに容易です。北部九州から漏れ出した大陸文明の一部は、このルートで近畿地方へもたらされました。これは、弥生遺跡の分布から明らかになっています。ただし、獣道しかなかった時代では、大型船のような大量の物資を運ぶことは出来ず、「文明の流入」という規模にはならなかったのでしょう。