邪馬台国の時代 どんな船を使っていたの?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の四回目になります。前回までに、史実に残る朝貢の記録を整理し、陸路を移動する事の困難さを指摘しました。古代の長距離移動を考える上では、船を使った海路が主流だったのは確実でしょう。船は、現代の飛行機に相当する存在でしたから、その当時の最先端技術を結集させたものが、大型の古代船だったのではないでしょうか?

 今回は、魏志倭人伝に記されている「水行」がどのように行われ、どのような船が使われていたかを考察します。

 古代の長距離移動が、船を使った海路が主流だった事は、魏志倭人伝からも明らかです。

まず、朝鮮半島の帯方郡から南部の狗邪韓国までは、

「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」

とあるように、朝鮮半島の陸地を歩くことなく、船で移動していた事が分かります。さらにそこから対馬海峡を渡るには当然ながら船での移動となります。

 九州島の最初の上陸地点・末蘆国からは「陸行」、すなわち陸地を歩いています。末蘆国と伊都國との距離は500里もあり、背振山地などの急峻な山々を越えなければなりませんでした。

 これは、前回の動画で指摘しました通り、女王・卑弥呼が意図的に魏の使者たちの方向感覚を狂わせる目的だったと考えます。当時の中国は倭国に比べて遥かに文明が進んでいた超大国でした。そんな魏の国からの使者たちに、倭国の正確な地理情報を知られてしまっては非常に危険です。同盟国とはいえ、いつ何時手のひら返しにあうやも知れません。倭国の正確な地理情報が知られてしまえば、丸裸にされたようのものですので、簡単に侵略されて征服されてしまうからです。

 このような理由から、末蘆国から伊都國までは、本来必要の無い困難な陸路を歩かせたわけです。さらに伊都國から奴国(博多湾地域)まで、奴国から不彌國(宗像地域)までは、それぞれ100里という短い距離でしたし、比較的平坦な地形です。このあたりの行程で「陸行」だった事には、何の矛盾も無いでしょう。

 不彌國の先は、船を使った長距離移動になります。

不彌國から投馬国まで水行20日です。20日間もの間、港に立ち寄ることなく、一気に海を渡って行った様子が窺えます。これは、日本海を流れる対馬海流を利用した沖乗り航法なればこそ成り立つ行程ですね? そのために、魏志倭人伝では距離の記述だった行程が、ここからは日数の記述になっているのです。

 そして、投馬国から邪馬台国へも、水行10日という同じように船を使った長距離移動になっています。なお、「陸行一月」という陸路を使ったもう一つの長距離移動方法も併記されていますが、その理由については次回以降に述べる事にします。

 魏志倭人伝という文献上では、水行20日、水行10日と、船を使った長距離移動を簡単に記していますが、そんな事が出来る航海が現実的に可能だったのでしょうか?

 考古学的には、数千年前の縄文時代の丸木舟の出土はありますが、弥生時代の船の全体像が分かる現物は見つかっていません。波よけのような部分的な木材が見つかっているだけです。その為、どういう技術レベルだったかは、線刻画という木片や土器や銅鐸に落書きされた絵から推測するしかありません。

 邪馬台国時代に一致する最も有名な古代船の線刻画は、投馬国・但馬の国・袴狭遺跡から出土した船団の絵です。

大小さまざまな船が幾つも描かれています。この絵をよく見ると、船首部分がサメの口のようにパックリと開いていますね。これは、準構造船と呼ばれる船の形式です。丸木舟の船首に波よけの木の板を取り付けたものです。この準構造船は、弥生時代に限らず古墳時代においても広く使われていました。古墳から出土する埴輪はすべてこのタイプの船です。そもそも弥生時代と古墳時代という時代区分自体があいまいなものですので、この辺の紀元前3世紀から紀元後6世紀あたりまでは、すべて準構造船が使われていたようです。

 なお、船全体を木の板で作り上げる船は「構造船」と呼ばれますが、日本でそれが出現するのは七世紀の遣隋使が始まった時代とされています。

 では、この準構造船の性能はどのようなものだったのでしょうか? 小型の準構造船であれば、丸木舟が進化したものですので、外海を航海するにはかなり容易になった事でしょう。しかし、埴輪に見られるような大型の準構造船となると、そうでも無かったようです。大型の準構造船を作るには、それだけ巨大な丸太が必要になるという建造上の理由だけではありません。船は大きくなればなるほど、操縦するのが難しくなります。細長い船体では左右のバランスが悪くなる上に、重心が高くなってしまい、簡単に転覆してしまうのです。それを改善する為に、船底に重りを入れれば良いのですが、安定性が増す代わりに今度は船の重量が重くなりすぎてしまうのです。結果として、大勢の人力で船を漕いでもほとんど進まない、というお粗末な結果になってしまうのです。

 大型の準構造船については、1970年代から3回に渡って実証実験が行われています。1975年の野生号プロジェクト、1990年のなみはや号プロジェクト、そして2004年の大王の棺プロジェクトです。これらのついての詳細は以前の動画で紹介していますので、ご参照下さい。

 これらの内、大王の棺プロジェクトの大型船のみ、かろうじて船としての体裁が保てましたが、その他の2つは全く使い物になりませんでした。それは先ほど述べた理由によります。

 失敗した2つのプロジェクトは、実証実験というよりも、イベントとして古代船を復元してみた、という安易な趣旨でしたので、上手く行かなくて当然の結果でした。それほど大型船の建造は難しいという事です。

 弥生時代の大型船としては、実証実験で成功した大王の棺プロジェクトレベルの船は存在していたのではないでしょうか?

実際に、2世紀の銅鐸に描かれた線刻画に、同じような大型船の絵があります。邪馬台国・越前の井向遺跡から出土した「大石銅鐸」に描かれていたものです。

 舳先が上に向いているので明らかな準構造船ですので、外海を航海するのに適しています。乗組員は指揮官一人と十数人の漕ぎ手、海に向かって十数本の櫂が見られます。さらに船尾には、十文字の模様が書かれています。これは帆を張る為の柱だった可能性があります。この時代には既に補助的な動力として、風の力を利用していたのではないでしょうか? 

 帆船自体は、10世紀頃に中国で発明されたジャンク船と呼ばれる構造船が、本格的な風の力を利用する船なのですが、補助的に風の力を利用する船は、弥生時代どころか縄文時代でさえも存在していた事でしょう。そうでなければ、数万年前に南の島から縄文人のご先祖様が日本列島に流れ着くのは不可能ですし、環日本海地域を縄文人たちが自由自在に移動する事も出来ません。

 邪馬台国時代の長距離移動を考えると、投馬国の袴狭遺跡の線刻画に描かれているような準構造船の船団を組んで航海したり、邪馬台国の井向遺跡の線刻画のような大型の準構造船で航海していた、と推測できます。

 それらの船は、櫂を漕ぐという人間の動力だけでなく、対馬海流や風力という自然の動力をも利用して、ダイナミックに長距離移動していた事でしょう。

 なお、邪馬台国から投馬国へ戻る場合には、対馬海流が逆向きになりますので、船による長距離移動が困難になってしまいます。その為に、「陸行一月」という陸地を歩く不思議な長距離移動が魏志倭人伝に記される事になったのです。

この詳細は次回に持ち越す事にします。

 いかがでしたか?

古代の長距離移動は、船による海路が基本です。その船は、帆船が完成する前の時代であっても、「風」という自然の力を何らかの形で利用していたのは間違いないでしょう。時代は異なりますが、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアといった太平洋の島々に移住した人々は、原始的なカヌーに帆を張って数万キロもの航海を行っています。彼らを祖先に持つ縄文人もまた、原始的な帆船で海を渡り歩いていたのかも知れませんね? 邪馬台国時代の船に、帆が張られていたと考えても、何ら不思議な事ではありません。

古代人は磁場を感じていた?

 自然の動物たちが、磁場を感じて移動している、という説は有名ですね。渡り鳥が古巣に帰って来たり、海亀が自分が生まれた砂浜に産卵しに帰って来たり、鮭や鱒といった魚たちでさえも古巣に帰って産卵します。

現代人の感覚からは到底理解できない野生動物の行動なのですが、古代人も同じように磁場を感じる能力があったのかも知れませんね。水平線の彼方の見知らぬ土地まで航海した後に、故郷に戻って来れたりしている訳ですから。

 古代人に限らず、電子機器が発達する前の時代の漁師さんたちも、そのような感覚に優れていたといいますね?

科学技術の発達が、人間が本来持っていた能力を退化させてしまったのでしょうね。