こんにちは、八俣遠呂智です。
日本固有の「皇紀」と呼ばれる暦は、神武天皇が即位した紀元前 660 年 2 月 11 日を皇紀元年とするものです。
この暦は、初期の天皇の時代や年齢が非現実的な為、古代史研究家たちによって、様々な年代の曲解が行われています。前回は、二倍暦年という強引な年代のサバ読みをご紹介しました。今回はさらにとんでもないサバ読みを行って、日本書紀を無理やり中国史書に一致させる手法を紹介します。
日本書紀に記されている初期の天皇の年齢や在位期間を、800年ほどサバを読み、結論ありきで曲解します。このようにすれば、中国の正史・宋書に記されている倭の五王の年代と一致するだけでなく、初代・神武天皇から第十代・崇神天皇あたりが邪馬台国時代と一致する為、多くの研究者たちが好んで用いています。
前回は、現代の一年が古代日本では二年だったという「二倍暦年」と呼ばれる曲解を紹介しました。これは、魏志倭人伝にある裴松之(はいしょうし)による注釈、
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」
「魏略いわく、その習俗は正暦・四節を知らない。ただし春耕し秋収穫を計って年紀とす。」からの曲解でした。
この二倍暦年を使うと、初代・神武天皇の時期が紀元前53年頃になります。これではまだ200年のズレがあります。
そこで今度は、「四倍暦年」というトンデモナイ曲解を用います。
この四倍暦年の根拠は、「天皇の在位期間が長くてご長寿であらせられる事が、何よりも高いステータスだった。」
というあまりにも情緒的な解釈です。春。夏。秋。冬。と、季節ごとに一年として、本来の一年間は、実は四年分カウントされていた、ってな訳です。
しかも都合よく、古代史最大の女傑・神功皇后の時代からは、二倍暦年に戻ってしまった、としています。
ではこれを、日本書紀に記された年代に当てはめてみましょう。すると、初代・神武天皇は希望通りの二世紀頃になります。そしてこの四倍暦年だった暦は、神功皇后の夫である第十四代・仲哀天皇までとなります。神功皇后が摂政を務めた第十五代・応神天皇から第二十代・安康天皇までは、一年を二年とした二倍暦年、として計算します。なぜ第二十代・安康天皇までが二倍暦年か?という根拠は何もなく、その次の雄略天皇が実在していたという曲解が根底にあります。要は、中国正史の宋書に書かれている倭の五王の年代とピッタリくるから、というご都合主義だという事です。
なお四倍暦年が神功皇后の前までとした根拠は、応神天皇の摂政として70年間にもわたって絶大な権力を持っていた神功皇后なればこそ、暦年変更が可能だったのでないか?この時期以外にはないだろう?と考えたからです。なんとも調子の良い解釈ですね?
では、この四倍暦年と二倍暦年とのちゃんぽんを当てはめて、日本書紀の年代を改竄してみましょう。
すると、最初に示しました通りの年齢や在位期間となります。初代・神武天皇の即位は、西暦125年となります。四倍暦年と二倍暦年を使って、なんと800年もサバを読んだ事になり、邪馬台国時代の初めころになります。
こうする事で最も都合が良いのは、倭の五王の年代との一致です。宋書に記された讃・珍・済・興・武、が中国に朝貢した時代と一致するという訳です。
宋書によると、讃の記述が421年から438年ですので、仁徳天皇。
珍の記述が438年から451年ですので、履中天皇。
済の記述が451年から462年ですので、允恭天皇。
興の記述が462年から477年ですので、安康天皇。
武の記述が477年から502年ですので、雄略天皇。
ってな訳です。
また、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)が、倭寇を退治したとする広開土王碑(こうかいどおうひ)の年代とも一致するとしています。碑文によると、これは西暦414年に建てたとされています。
三韓征伐で高句麗を退治した神功皇后の活躍を西暦300年代としておけば、その後に高句麗が反撃して倭国を撃退した、という訳です。
七支刀(しちしとう)という四世紀頃に百済から贈られた刀との整合性も取れるとしています。七支刀(しちしとう)は、6本の枝刃を持つ特異な形をした刀で、神功皇后が三韓征伐した際に、百済から取り上げたとも、百済から倭国へ朝貢した献上品だとも言われる品です。
このように、日本書紀の年代を曲解して改竄する事によって、中国や朝鮮半島との歴史との整合性が取れるとする数々の事例を、歴史家たちは挙げています。
ところがおかしな点も山ほどあります。例えば、神功皇后の時代、すなわち第十四代・仲哀天皇から第十五代・応神天皇の時代ですが、これを四世紀に固定してしまうと、今度は魏志倭人伝からの引用との齟齬が生じてしまいます。日本書紀には邪馬台国や卑弥呼の記述は無いものの、女王国から魏の国へ朝貢を行った記録が、神功記の中に記されているのです。これは、神功皇后が確実に邪馬台国と同じ時代の三世紀の人物、すなわち卑弥呼である可能性を示しています。
宋書という中国正史に従って、日本書紀を改竄するのもいいですが、それによってさらに古い中国正史・三国志との時代に、明らかなミスマッチが生じてしまうのです。
さらに、初代・神武天皇の即位を800年もサバを読んで西暦125年にしたのはいいですが、まだまだ時代ギャップがあります。それは、神武天皇が出発した日向の国は、弥生時代には何も無かった不毛の地だからです。地形的に河川による沖積平野ですし、土の質でも稲作には不向きな黒ボク土地帯です。弥生時代にはほとんど農業生産はありませんでした。現に、その1300年後の江戸時代でさえもこの地の石高は、たったの29万石しかありませんでした。
また、日向の国の弥生遺跡からは王族の存在を匂わす出土品はほとんどありません。
神武東征を二世紀頃に設定したところで、この弱小地域が近畿地方を征服したなど、ありえない話です。
可能性としては、日向は馬の繁殖的ですので五世紀から六世紀頃に強力な騎馬軍団となって、近畿地方にやって来た可能性はあります。
まあ、このような事をいくら述べたところで、仕方ありません。初期天皇についての矛盾はありすぎるほど、あります。それを一つ一つ上げても切りがありません。初期のころの天皇は、架空の人物・神話の人物として、そっとしておいてあげるのが、現代人の優しさだと思います。
いかがでしたか?
日本書紀の年代を無理やり中国史書に合うように、無理やり改竄する歴史家たち。彼らの本質は、天皇家が神武天皇以来、途絶える事なく血統が受け継がれている事を、なんとか正当化したい。という思惑です。万世一系を切に願いたい気持ちも分からないではありませんが、現実も受け入れるべきでしょう。初代・神武天皇からでなくても、王朝交代が起こった第26代・継体天皇からでも、十分に世界最長の王族。それが日本国の天皇家なのです。