天皇家はいつから始まった?

 「天皇家が2600年前から続いている」というファンタジーは、すでに完全に否定されています。科学的に有り得ないのは、自明だからです。もちろん個人的には、日本国の王朝が世界最長の2600年であってほしい、という願望はあります。ただし歴史的事実とファンタジーは別物です。

では、いつの時代の、どの天皇から実在が確認されているのでしょうか?

今回は、主要な四つの仮説の概要について述べて行きます。

いつから00
立証責任

 まず、初代・神武天皇から考察します。

もし神武天皇が存在していたのならば、それを科学的に立証すべき点が三つあります。

 一つには、日本書紀に記されている初期の天皇の年齢が正しいとすれば、天皇家は2600年前から始まっていた事になります。これは、福岡県・板付遺跡の原始的な水田稲作が始まったのと同じ時期という事です。可能性としてゼロパーセントではありませんが、これを歴史的事実とすれば、100歳以上の高齢の天皇がたくさん存在していた事、古代の日本人が現代以上に健康だった事を、科学的に立証しなければなりません。

 次に、神武東征が九州から近畿へ瀬戸内海を渡って来た事の立証も必要です。世界屈指の困難な海域ですが、古代船で移動できた可能性は限りなくゼロパーセントです。もし歴史的事実だとすれば、その当時、どのような立派な古代船が使われていたのかを、科学的に証明する必要があります。

 さらに神武天皇は、奈良県の橿原に入る前に大規模な戦闘を繰り広げています。それだけの大きな戦いがあったならば、何らかの考古学的資料が残っているはずです。ところが、そんなものは一切ありません。

 これらが歴史的事実であるという立証責任は、万世一系を唱える論者にあります。

 なお神武東征は、瀬戸内海航路が確実に拓かれた六世紀頃の逸話が元になっています。その理由の一つには、造船技術、航海技術の進歩です。実質的には、北部九州の筑紫平野で起こった「磐井の乱」の鎮圧を機に、拓かれたようです。瀬戸内各地に屯倉が置かれ、ヤマト王権の支配が強固なものとなりました。

 これらについては、以前の動画、「神武東征は藤原氏の東遷」、および「文献史学の欠陥 瀬戸内海航路」などで述べていますので、ご参照下さい。

いつから10
四つの説

 初代・神武天皇が存在しなかったのは明らかですが、では何代目の天皇から実在していたのでしょうか。

広く唱えられている説は、四つあります。

 第十代・崇神天皇、第十五代・応神天皇、第二十一代・雄略天皇、第二十六代・継体天皇、です。

具体的な根拠は、次回以降の動画で考察する事として、今回は概要だけを示します。

 これら四人の天皇の内、崇神天皇と応神天皇は、日本書紀などの文献からの類推や、神社伝承という、極めて希薄な根拠を元にしています。この希薄な根拠からさらに、歴史作家が様々な物語を創作して、説を唱えていました。そうする内に、いつのまにか既成事実化してしまい、それを妄信してしまった間抜けなな古代史研究家が多いからです。

 これらお二人の天皇を起源とする説は、主に邪馬台国九州説によって支持されています。いわゆる「ヤマト東遷説」という、九州に地盤があった王族が、近畿地方を征服したというファンタジーです。

 一方、雄略天皇と継体天皇は、文献史学だけでなく、考古学的な根拠があります。その時代の出土品から、日本で最も古い王族と見なされる遺物が見つかっているのが特徴で、根拠はより深いものです。

邪馬台国の視点から見ると、九州説・畿内説の両者とも、このお二人の天皇を起源とするのを嫌っているようです。

それは、自分の説が崩れ去ってしまうという単純な話です。

 では、それぞれの説の概要です。

いつから20
崇神天皇

 まず、崇神天皇です。

崇神天皇は、第10代天皇で、日本書紀の年代を素直にカウントすれば、紀元前一世紀頃の人物となります。つまり邪馬台国よりも300年も前の時代です。在位期間は68年で、崩御されたご年齢は、119歳です。このお方もご長寿であらせられました。

 この天皇を起源とする説は、日本書紀における記述量が多い事です。第二代綏靖(スイゼイ)天皇から、第九代開化(カイカ)天皇までの記述が少ないのに、崇神天皇になると突然一気に増えています。

 諸国の豪族を討伐して天下統一を行った事を匂わす記述や、神社の起源、諸国に税を課すなど、ヤマト王権の中央集権国家体制が推し進められたような描写があります。

 残念ながら、崇神天皇の根拠は「日本書紀」や「古事記」という古文書だけです。考古学的な資料や、科学的な裏付けは全くありません。

いつから30
応神天皇

 次に、応神天皇です。

応神天皇は、第十五代天皇で、日本書紀の年代を素直にカウントすれば、四世紀頃の人物となります。崩御されたご年齢は、111歳ですので、このお方もご長寿であらせられました。

 この天皇を起源とする説は、日本書紀における出生の地が福岡県宇美町である事と、大分県の宇佐神宮の祭神になっている事です。

 やはり文献史学が根拠で、しかも福岡県で生まれたというだけの話です。また、宇佐神宮は八世紀の奈良時代に栄華を極めた神社ですので、創建はせいぜい六世紀頃です。応神天皇が祭られたのは、日本書紀の記載を根拠として奈良時代よりも後に時代に作られた話でしょう。神社伝承は、最も根拠が希薄です。

いつから40
雄略天皇

 次に雄略天皇です。

雄略天皇は、第二十一代で、五世紀頃の人物です。崩御されたご年齢は、62歳です。日本書紀では、勇猛果敢でいくつもの武功を上げている反面、残虐非道な性格が描かれています。この天皇を起源とする最も大きな根拠は、考古学的な発見です。埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣と、熊本県和水町の江田船山古墳から発見された鉄剣に、刻まれていた諱が雄略天皇の可能性があるのです。

 これはまだ仮説の域を抜けませんが、すでに多くの歴史作家が興味を示し、物語を作り上げています。多くの書籍が出版されています。

いつから50
継体天皇

  最後に継体天皇です。

継体天皇は、第二十六代で、六世紀の人物です。崩御されたご年齢は、82歳です。日本書紀では、越前の国(現在の福井県)から招聘されて皇位についた事になっています。

 古文書だけでなく、考古学的にも確実に存在していた可能性が最も高い天皇です。ただし、近畿地方以外から唯一皇位についた天皇である事や、奈良盆地ではなく淀川水系に都を置いていた事など、不可解な天皇です。謎の多い古代史の中でも、邪馬台国に次ぐミステリーとされています。

 「現実的な初代天皇は誰か?」

という疑問については、

 「どの天皇が近畿地方を征服したか?」

という疑問と同義語になっているでしょう。つまり、王朝交代です。

崇神天皇や応神天皇は九州勢力、雄略天皇は関東勢力、継体天皇は北陸勢力が基盤の豪族となります。

 次回からは、それぞれの天皇の詳細と、それを基に歴史作家によって作られた物語などを紹介します。