六世紀に、熊本県宇土市の阿蘇ピンク石が、近畿地方の天皇の棺に使われています。
巨大な石をどうやって運んだのか?その実証実験が行われています。宇土市主催の「大王のひつぎ実験航海事業」です。古代船を再現して、実際に熊本から大阪まで人力だけで運搬する事に成功しました。
これは、単に巨石が運べた事の証明だけでなく、遅れていた瀬戸内海航路がようやく実用化された事の証明でもあります。
今回は、この実証実験の中で最初に必要となる物の復元作業について紹介します。
「大王のひつぎ実験航海事業」2005年に熊本県宇土市の主催で行われました。
大阪府高槻市の今城塚古墳で発見された継体天皇の棺が宇土市産だった事からのアイデアでした。
宇土市で切り出した馬門石で7トンの石棺を造り、古代船に載せ、有明海から関門海峡を通って瀬戸内海、さらに大阪湾へと運び込む、という1000キロにも及ぶ実験航海でした。結果は、危険な海域は全てディーゼル機関の船で引っ張ってもらっていたので、不完全ではありますが、一応の成功を収めました。
同じような古代船による実証実験は、1975年の「野生号」や1990年の「なみはや号」などが行われていましたが、いずれも大失敗でした。
この宇土市の航海実験が成功を収めたのには、綿密な下準備があったからです。今回、航海実験を行う前に宇土市が行った準備について、次の順序で紹介します。
・石棺の復元
・修羅の復元
・古代船の復元
・台船の復元
まず、復元された石棺です。モデルは、大阪府高槻市の今城塚古墳の棺です。被葬者は越前の大王・継体天皇です。
材料は、熊本県宇土市産の凝灰岩で、通称・阿蘇ピンク石と呼ばれています。
棺は蓋と本体の二つを作りました。蓋の大きさは次の通りです。
長さ、240㎝、
幅、124㎝、高さ65㎝
重さは、2.9トンです。
棺本体の大きさです。
長さ241㎝、幅125㎝、高さ89㎝、重さは3.8トンです。
このように、総重量6.7トンの巨大な棺を製作しました。
次に、修羅の復元です。これは、陸上で石棺を運ぶための道具で、石切り場から港までの輸送手段です。
この実験では、修羅が作られました。
古来より、重量物を遠距離運ぶにはさまざまな道具が使われてきました。
ソリ、修羅、車などが用いられていました。人力だけではなく、犬・馬・牛などの動物の力を借りながら、これを曳くことで、より効率的に運ぶことができたのです。
修羅は、ソリが変化し発達したもので、自然の股木を利用したY字形のソリを指します。
修羅の名称は、歌舞伎の「修羅場」や興福寺の「阿修羅像」などでよく知られています。「阿修羅」は古代インドの鬼神で、須弥山の下の海底に住み、須弥山上に住む「帝釈天」と絶えず争いをくり返していました。
帝釈を動かせるのは阿修羅しかいないという言い伝えから、巨石を動かす道具に「修羅」という名前が付けられるようになったそうです。
古代においても「修羅」の名称が使われていたのかどうかは不明ですが、16世紀以降、大きな石などを動かすための道具を修羅と呼んでいたことは文献などから確認されています。
製作した修羅は,全長6.22m、幅0.73~1.56m、高さ0.28~0.73mという大型のものです。
原木は根元付近から二股に分かれた樹齢約250年のアラカシを使用しました。
約3ヶ月かけて完成させました。
山から切り出した阿蘇ピンク石を、石棺へと復元し、この修羅に載せて海岸まで陸地を運搬しました。
復元した古代船の大きさは、
全長11.90メートル・最大幅2.05メートル。
重さ約6トンです。
構造は、丸木船の船底と舷側版を組み合わせた木造の準構造船です。
モデルとなった船は,宮崎県西都市・西都原古墳群第169号墳(5世紀後半)から出土した船型埴輪です。
船型埴輪から復元した古代船の実験では、1990年の「なみはや号プロジェクト」があります。
埴輪を完全コピーして作られた船でした。しかし、船の重量が重くなりすぎた事と、安定性が全く無かった事から、完全に失敗に終わっています。
この反省から、古代船の製作には最新鋭の技術が用いられました。完全コピーではなく、実用に耐えられる船を作る事を最優先させたのです。
実際には、神戸商船大学名誉教授の松木哲(さとる)氏が基本設計しました。そして製作には、黒田藩御用船大工の家系をひく和船大工の棟梁・松田又一氏の助言のもとで、福岡市志賀島の藤田造船所が建造しました。
原木は樹齢約500年で直径1.5メートルの米国オレゴン州産のベイマツです。このベイマツを二本接合して一隻の古代船に復元しました。
約五か月を掛けて完成させました。
名称は一般公募して、「海王」という名前に決定しました。
台船の復元です。
重さが7トンにもなる阿蘇ピンク石の棺ですが、これを人が乗る船と一緒にのせるわけにはいきません。安定性が崩れるからです。石棺は、別に台船を作って、それに載せられて古代船「海王」で曳かれることになります。
「海王」を建造したのと同じ造船所で作られました。石棺の蓋と本体を別々に運ぶため、蓋用と本体用の2隻を製作しました。 古代に石棺のような重量物を積載して搬送したような船の出土例はないため,台船の製作はまさに古代人との知恵比べとなったようです。古代技術の検討と模型実験を重ねながら建造されました。
蓋をのせた台船は、「有明」と命名されました。
全長8m、幅2.2m、重さ3.5トンです。
3本の丸太材をおおまかな船形に裁断・接合した丸太船です。接合は貫通材やほぞなど古代技術で行いました。ただし、安全の為に鉄を用いて補強が行われました。
本体を載せた台船は、「火の国」と命名されました。
全長10m、幅2.4m、重さ4.5トンです。
構造及び建造趣旨は台船「有明」と同じです。
このように準備万端整えて、実際の航海実験が開始されました。
スケジュールを綿密に練り、日誌をしっかり記録しながらの航海でした。当然のようにも思えますが、1990年の「なみはや号プロジェクト」の失敗の際には、全区間をディーゼル船で曳航されています。その失敗事例からよく学んだようで、主催者・宇土市の本気度が分かります。人力の漕ぎ手だけで、1000キロもの航海を成功させ、その記録を次世代に残そうという意欲の表れでした。
次回は、この実証実験のルートの詳細や、実験が終わって見えてきた継体天皇の思惑について紹介します。