邪馬台国の場所
弥生時代末期に存在した大国、邪馬台国を研究しています。
畿内説・九州説・出雲説など、いろいろな説がありますが、いずれも決定打がありません。
なにが問題なのでしょうか・・・?
そもそも弥生時代とは、水田稲作という生産効率の高い農業が始まって、人口爆発が起こり、大きな集合体が発生した時代です。そんな中で出現した邪馬台国は、魏志倭人伝に記されている通り「七萬餘戸」という超大国でした。
これは、大規模な天然の水田適地にだけ、発生する事が可能です。
当ホームページでは、日本列島における超大国出現の基本中の基本である農業、特に水田適地の視点から調査を進め、交易品の鉱工業や、商業活動にも着目して、邪馬台国の場所を特定しました。
動画による分かりやすい解説を作りましたので、是非、ご視聴下さい。
畿内説・九州説・出雲説・・・色々な説がありますが、いずれの説も、これまでは農業の視点が欠落していました。現代のように、日本全国どこでも水田稲作が出来て当たり前と、論者達は、思い込んでいるようです。弥生時代末期の日本列島は、湿地帯・淡水湖・密林地帯がほとんどで、水田稲作が出来る場所は限られていた事を、まずは認識しなければなりません。
そして、その時代に超大国が出現するには、それに見合うだけの農業生産の必要がある事を、大前提にすべきでしょう。
畿内説 → 淡水湖や湿地帯だらけで農耕地が少ない。
九州説 → 筑紫平野は密林地帯で、三日月湖跡しか農耕できない。
出雲説 → そもそも平地が少ない。
という風に農業生産の視点から見ると、弥生時代末期に超大国になる要素はありません。
そこで私は、魏志倭人伝から場所を特定するのではなく、弥生時代末期に大国となるための条件を考察しました。
大国出現には必然性があります。食料(農業生産)と、働く場所(農耕地)がなければ超大国は生まれません。そんな当たり前なことを調査して行くと、ある場所が弥生時代末期の有力な超大国だった事が分かりました。
その大国は、偶然にも魏志倭人伝の場所と一致していました。
必然: 農業生産量が大きくなると、大国が出現する。
偶然: その大国は、魏志倭人伝の記述と一致している。
場所は、近畿でも九州でも出雲でもない、意外な所でした。
弥生時代末期に超大国だったのは、高志(こし)です。高志という呼び方は、飛鳥時代以前の北陸地方の事です。飛鳥時代に、高志を三区分するにあたり、
高志 → 越 へと変更されました。変更後は、越前・越中・越後となり、奈良時代に越前から能登・加賀が分離されました。
超大国だった場所は、越前(福井県・石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)の内、越前を中心とする一帯です。
女王国の都・邪馬台国は、現在の福井県福井市を中心とした平野です。勢力範囲は、北陸地方から山陰地方、九州北部にまで及んでいました。
弥生時代末期、この平野一帯が、日本で最も農業生産が優れていました。
弥生時代中期までは淡水湖だったこの一帯が、弥生時代末期には、水稲栽培に最適な土地となったからです。驚くほど平坦で、極端に水はけの悪い沖積層から成っており、こまごまと畦を作る必要のない大規模水田稲作が可能な土地でした。
必然的に、爆発的に人口が増え、邪馬台国の基盤が出来上がりました。
ただし、冬場の悪天候という日本海側ゆえの欠点がありました。
そのため、常に近畿地方への南下を目論んでいました。その当時の近畿地方は、『狗奴国』です。
魏志倭人伝に記されている通り、『狗奴国』は『邪馬台国』と対立していたライバル国です。また、女王国の【南】に位置しているとも書かれています。
卑弥呼が世を去ってから250年後の六世紀初頭、ついに邪馬台国は狗奴国を征服しました。これが、第二十六代天皇の継体天皇です。ヤマト朝廷という名前は、ヤマタイ勢力が支配した朝廷という事です。
この時期には、邪馬台国と狗奴国には、圧倒的な技術格差がありました。もちろん、邪馬台国が遥かに先進的で、技術後進国の狗奴国は、圧倒されたことでしょう。禅譲という形をとって、新たな朝廷(ヤマタイ朝廷)が誕生したのです。
技術格差は、ハードウェアとソフトウェアの両面です。
武器や農耕具としての鉄器技術、情報伝達手段としての製紙技術です。
近畿地方は、古墳時代中期まで鉄器の出土がほとんど無いのに対して、越前地方は、弥生時代末期に数千点もの鉄器が出土しています。
また同じ時期に、日本で最初に製紙が始まったのも越前です。(越前和紙)
しかし、狗奴国(近畿地方)もまた、広大な農地を有する超大国だったので、邪馬台国が狗奴国を征服するには、長い時間を要しました。
次ページ: 邪馬台国の条件
動画:【なぜ越前だったのか?】